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NVNニュース 第23号(令和3年3月3日発行)
日蓮宗ビハーラ・ネットワーク
Nichiren-syu Vihara Network
NVN事務局 香川県丸亀市南条町9番地1 宗泉寺内
〒763-0046 Tel 070-5355-9856 Fax 020-4664-6973
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令和2年2月13日、NVN世話人事務局会議を開き、令和2年度NVN総会を5月に開催することが決まり、総会記念講演の講師を選定し日程調整をしていましたが、コロナウイルス感染症が拡大の一途をたどり、非常事態宣言が出されようとする中で、総会中止を決定致しました。
NVN会員の方には4月始めにNVN総会中止の連絡をし、その後、令和元年度活動報告・決算報告、令和2年度活動計画案・予算案をまとめて総会決議事項の承認をお願いすべく、資料送付と返信葉書により、決議事項承認をお願い致しました。173名の会員に送付させて頂き、82名の方々から承認の御返信を頂きました。コロナ禍にある中、御承認頂きまして、ありがとうございました。
NVN総会が中止になったのに伴い、総会記念講演も中止となってしまいました。NVNとしての活動が出来ない中、コロナ禍も収束する気配がなく、何も出来ずに終わってしまうかと思いましたが、日蓮宗生命倫理研究会主催の第17回「心といのちの講座」に協賛し、令和3年2月17日(水)午後1時より、31名の参加者でZoomを使用したオンラインにて開催することができました。
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第17回「心といのちの講座」の内容です。(文責:日蓮宗生命倫理研究会)
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「インド仏教と霊魂」
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山口県立大学教授 日蓮宗現代宗教研究所嘱託
東京都 善應院住職 鈴木 隆泰 師
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みなさま、こんにちは。今ご紹介に預かりました山口県立大学そして東京都善應院の鈴木隆泰でございます。本日、「インド仏教と霊魂」というテーマでお話しをさせて頂きます。
「インド仏教と霊魂」というテーマです。結論の一部を言いますと、今までインド仏教は霊魂を認めてないかのように言われてきたけど実はそうではないのだ、そしてそれに随って私たち日本の仏教徒、お祖師さまの流れを汲む我々は、同じように霊魂というものを大事にしながら教えを説いて人々を救っていっていいのだという結論になっていきます。安心してお聞き下さい。インド仏教やってる奴は霊魂を否定するんじゃないかと思うかも知れませんが、逆です。インド仏教では霊魂をきちんと認めているという話になっていきます。
1.[毒矢の譬え」
最初は「毒矢の譬え」という有名な譬えです。ご存知の方も多いかと思います。出典はパーリ語です。インドの古い言葉ですね。『小マールンキャ経』という経典、これは中部経典の第1巻に収められています。
お釈迦さまの弟子でマールンキャープッタという人がいます。この人が十個の悩みを抱えているんですね。どういう悩みかというのを順に見ていきましょう。「世界は永遠か」「世界は永遠でないか」「世界は有限か」「世界は無限か」「いのち(霊魂)と肉体は同一か」「いのち(霊魂)と肉体は別異か」「如来は死後存在するか」「如来は死後存在しないか」「如来は死後存在しながらしかも存在しないか」「如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか」こういう十個の悩みです。
このマールンキャープッタはこういうふうに考えちゃったんですね。「これら十個の疑問に世尊が答えてくれれば、自分は清らかな修行、インド語で梵行(brahmacarya)、一切の性交渉を断つ不淫に基づく出家修行のことを梵行、清らかな修行と申します、これを続けよう。もし答えてくれないのであれば、自分は還俗、お坊さんを止めてしまおう。」と、ここまで思い悩むわけです。彼は。
最後の試みとして、今までずっと答えてくれなかった釈尊、でも今回聞いて駄目だったら、もう還俗しようと思って、最後の望みとして彼は釈尊のもとに行くわけです。そうすると釈尊はやっぱり答えないんですね。マールンキャープッタはもう還俗しちゃおうかなと思っているところに、釈尊が説いた説法、それが「毒矢の譬え」です。
「マールンキャープッタよ、もし“世尊がこれらの疑問に答えてくれないのであれば、自分は清らかな修行を実践しない”という者があれば、その者は答えを得る前に死んでしまうであろう。」そして有名な「毒矢の譬え」が説かれます。
若干長いんですね、これ。はっきり言って途中でうざい感じがします。しつこいな。でも、このうざい感じが大事なんです。しつこい感じが。最後にそのうざい感じを通り越して釈尊がとどめの説法を行ってくるので、しばらくこのうざったい感じにお付き合い下さい。
「ある男が毒矢で射られた。彼の友人や同僚や親戚の者たちは、彼を医師に手当てさせようとした。ところが射られた当の本人は、“私を射た者のヴァルナ(四姓)はクシャトリヤ(王族、武人)階級か、バラモン(司祭)階級か、ヴァイシャ(庶民)階級か、シュードラ(隷民)階級か”」
いわゆる四姓制度、ヴァルナです。よくこの四姓制度とカーストと勘違いされるんですけど、カーストじゃありません、これは四姓制度、ヴァルナ制度です。カーストっていうのは、もっとこの四姓制度を元に発展して二千とか三千に分かれているのがカーストです。これは四姓制度、ヴァルナ制度と申します。続けます。
「“私を射た者の名は何か、姓は何か”“私を射た者は背が高いか、背が低いか、それとも中くらいか”“私を射た者の肌色は黒か、褐色か、金色か”“私を射た者はどの村、どの町、どの都市に住んでいるのか”“私を射た弓は普通の弓か、それとも石弓か”“私を射た弓の弦の素材はアッカ草か、サンタ草か、動物の腱か、マルヴァー麻か、キーラパンニン草か”“私を射た矢の矢柄の素材はカッチヤ葦か、それともローピマ葦か”“私を射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽か、アオサギの羽か、鷹の羽か、孔雀の羽か、シティハラヌ鳥の羽か”“私を射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものか、水牛のものか、鹿のものか、猿のものか”“私を射た矢は普通の矢か、グラッパか、ヴェーカンダか、ナーラーチャか、ヴァッチャダンタか、カラヴィーラパッタか”」
うざかったですよね。「これらが全て判明しないうちは、自分はこの矢を抜かない、と言ったとしたらその男はその答えを得る前に死んでしまうであろう。マールンキャープッタよ、そなたも全く同様である。」この後ですね、この「マールンキャープッタよ」という呼びかけの言葉が頻出します。これも後で効いてきますので、いっぱいあるけれども飛ばさずに読んでいきます。大事な部分です。
「マールンキャープッタよ“霊魂と肉体は同一である”という見解があるならば、清らかな修行を実践しよう、というのは正しくない。“霊魂と肉体は別異である”という見解があるならば、清らかな修行を実践しよう、というのも正しくない。“霊魂と肉体は同一である”という見解があろうが、“霊魂と肉体は別異である”という見解があろうが、いずれにせよ生・老・病・死等の苦があり(いわゆる四苦ですね、生老病死。苦があり)、私は現世においてそれらを制圧せよと教示する。(中略)」
「それゆえマールンキャープッタよ、私が説かなかったことは〈説かなかったこと〉として受け止めなさい。私が説いたことは〈説いたこと〉として受け止めなさい。」
「ではマールンキャープッタよ、私が説かなかったことは何か。マールンキャープッタよ、“霊魂と肉体は同一である”と私は説かなかった。“霊魂と肉体は別異である”とも私は説かなかった。(中略)」
「マールンキャープッタよ、なぜ私はこれらのことを説かなかったのか。マールンキャープッタよ、それは、目的に適わず、清らかな修行の緒とならず、苦からの厭離、貪欲を離れること、無明の制圧、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃(ニルヴァーナ)へとは通じないからである。ではマールンキャープッタよ、私が説いたことは何か。マールンキャープッタよ、“これが苦である(苦諦)”と私は説いた。“これが苦の原因である(集諦)”と私は説いた。“これが苦の制圧である(滅諦)”と私は説いた。“これが苦の制圧へと至る道である(道諦)”と私は説いた(四聖諦)。」
「マールンキャープッタよ、なぜ私はこれらのことを説いたのか。マールンキャープッタよ、それは、目的に適い、清らかな修行の緒となり、苦からの厭離、貪欲を離れること、無明の制圧、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通じるからである。」
「それゆえマールンキャープッタよ、私が説かなかったことは〈説かなかったこと〉として受け止めなさい。私が説いたことは〈説いたこと〉として受け止めなさい。」
このように世尊に説かれて、比丘マールンキャープッタは納得し、世尊の教えに歓喜した。そして彼は修行を続けていって悟りを開いたわけです。これが有名な「毒矢の譬え」ですね。御存じの方も多かったと思うんです。
で、これがですね、いわゆる、死後の世界を考えたり、霊魂のことを考えたりすることを、私たちにためらわせる大きな理由になっていたわけですね。如何にも役に立たないことをやってはいけないのか。仏教は実利主義的なのか。「霊魂や死後の世界を考えることは、覚るために無益である」と読めます。少なくとも読める感じがします。これが私たちを萎縮させてきたわけですね。霊魂や死後の世界を考えてはいけないのだ。釈尊はそう説いているではないか。
実際に、仏教には諸法無我と申しまして、我(アートマン)、霊魂というものを否定している三法印ってあるじゃないですか。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静という例の三法印です。無我説って入ってるんですね。諸法無我として。諸法無我、霊魂なんか無いんだ、というふうに教わってきましたけれども、本当にそうなのか、ということをインドの原典に遡って見てみたいと思います。
これから読む部分は諸法無我の出典になっている部分なんですけど、それを読んでいくと、いわゆる私たちが理解している諸法無我とは違った内容になっているのがわかります。ちょっと結論を一部先取りしました。
2.「無我説」は霊魂の否定か
「無我説」は霊魂の否定か。釈尊は(伝承はいろいろあるんですが)三十五歳で覚りを得て、そして初転法輪、最初の教えを説いて、その中で無我について説いているんですね。出典は『律蔵』の第1巻です。
釈尊は最初に教えを説いた。かつて自分と一緒に修行をしていた五比丘に向かって最初の説法、初転法輪を行います。
釈尊は説きます。「比丘たちよ、身体(物質、色。ルーパ)はアートマン(自己の本体、霊魂)ならざるもの(非我)である。もし身体がアートマンであるならば、身体は病に罹ることはないはずである。また、“私の身体はこのようであれ”とか“私の身体はこのようでないように”ともなしうるであろう。しかし身体はアートマンではないから、身体は病にも罹るし、“私の身体はこのようであれ”とも“私の身体はこのようでないように”ともなしえないのである。」
まず最初の部分で、これいわゆる五蘊なんです。色受想行識ですね、五蘊。最初は色(ルーパ、物質、身体)です。この色(ルーパ)がアートマンではない。アートマンがないとは言ってないんです。色がアートマンではないと言っているんです。
同様に、2番目、「感受作用(受。ヴェーダナー)はアートマンならざるもの(非我)である。」アートマンがないとは言ってません。アートマンではない。
3番目、「表象作用(想。サンジュニャー)はアートマンならざるもの(非我)である。」ここも同じです。
4番目、「形成作用(行。サンスカーラ)はアートマンならざるもの(非我)である。」
5番目、「認識作用(識。ヴィジュニャーナ)はアートマンならざるもの(非我)である。」
このように、色、受、想、行、識という五蘊すべてがアートマンではない、と釈尊は説いている。続けます。
「比丘たちよ、汝らはどう考えるか。身体は常住であろうか、それとも無常であろうか。」比丘たち「身体は無常であります。」釈尊「では、無常であるものは思い通りにならないか、それとも思い通りになるか。」比丘たち「思い通りになりません。」釈尊「では、無常であって思い通りにならず、損壊する性質を持つ身体を、どうして“これはわたしのものである”とか“これがわたしである”とか“これがわたしのアートマンである”などと見なすことができようか。」比丘たち「いいえ、できません。」釈尊「感受作用は(中略)、表象作用は(中略)、形成作用は(中略)、認識作用は常住であろうか、それとも無常であろうか。」比丘たち「無常であります。」釈尊「では、無常であるものは思い通りにならないか、それとも思い通りになるか。」比丘たち「思い通りになりません。」釈尊「では、無常であって思い通りにならず、損壊する性質を持つものを、どうして“これはわたしのものである”とか“これがわたしである”とか“これがわたしのアートマンである”などと見なすことができようか。」比丘たち「いいえ、できません。」釈尊「それゆえに、ありとあらゆる身体、感受作用、表象作用、形成作用、認識作用は(中略)“これはわたしのものではない”“これはわたしではない”“これはわたしのアートマンではない”と、如実に、正しい智慧をもって理解しなくてはならない。」
これが諸法無我の出典なんです。インド語の。ですから、無我説、無我説と言っていますけれども、その内容は、五蘊はアートマンではない、ということを釈尊は説いているんですね。ですから、正確に言いますと、諸法無我ではなく、五蘊非我なんです。五蘊がアートマンではない。つまり、アートマンそのものがあるともないとも説いてないんです。五蘊はアートマンではないぞ、と。つまり、この諸法無我説の元をたどると、五蘊非我説で、アートマンの存在否定にはなっていないということが、インド語原文から分かるんです。
つまりそこから論理的に導きかれるものは、五蘊以外にアートマンが存在する可能性を残すということです。あくまで、五蘊がアートマンではない、と言っていますよね。五蘊以外にアートマンがある可能性を残した原文なんです。ただし現存するパーリ仏典では、アートマンがある、と明言してはいないのも事実なんです。
でもそれはパーリ仏典を伝承したのが、上座部のマハービハーラ派という部派なんです。実は部派によってアートマン、霊魂の捉え方が違っていたということが最新の研究で分かってきました。
3.霊魂を説いた部派が存在していた
実は、あまり知られていなかったのですが、霊魂を説いた部派というのが存在していたんです。部派って分かりますよね。釈尊の入滅後百年位して、釈尊の教団(サンガ)が分裂を開始します。根本分裂を百年後に起こします。そのあと末枝分裂を起こして沢山の部派に分かれる。そのあと大乗仏教が出てくるという流れになっているんですけど、その沢山分かれた部派の中に霊魂を説いた部派が存在していたということが分かっています。
その部派は、犢子部(とくしぶ)と言います。インド語でヴァーツシープトリーヤといいます。この部派が「プドガラ(霊魂、アートマン)」、プドガラと名付ける霊魂、アートマンの存在を主張していたことが分かっています。
この犢子部という部派は、かつて相当の影響力を持っていたんですけども、恐らく皆さんも殆どご存知なかったと思います。現在ではあまり知られていません。マイナーになってしまっていますね。霊魂を説いた部派があったということ自体が知られてないんです。
この犢子部によればプドガラというものは何かといいますと、過去・現在・未来の三世にわたる業の担い手である輪廻主体として、有為法、これは作られたものを有為法と申しますね、作られたもの有為法でも作られていない無為法でもないものとして実在していると主張。つまり、犢子部によれば、法は有為法と無為法の他にプドガラというものがある、というふうに主張したわけです。つまり、作られたものでも作られてないものでもないものとして、プドガラが存在していると犢子部は主張したんです。
ところがこれは、かの有力だった部派によって否定されるんです。まず西北インドにおいて有力だったのが説一切有部という部派です。サルヴァースティヴァーディンという部派です。この教学によれば、一切法は有為法と無為法しかないんです。一切法は有為法と無為法しかない。ですから我々がですね、一切法は有為法と無為法ですよね、それしか無いですよね、というのは実は説一切有部の理解に過ぎないんです。実はそれ以外の理解をしていた部派があったんです。でもそれはマイナーで歴史の中で殆ど消えていて、あまり知られてなかった。それが最近発掘されたんです。戻ります。有力だった説一切有部によると、一切法は有為法と無為法よりなる「五位七十五法」に分類され、その中にプドガラ(アートマン)は存在していません。この説一切有部の教学は、龍樹菩薩(ナーガールジュナ。西暦150年−250年頃の方です)と並ぶインド大乗仏教の大論師である世親(ヴァスヴァンドゥ。400年−480年頃)の著作『倶舎論(アビダルマコーシャ・バーシュヤ)』に詳しく紹介されている。
『倶舎論』は仏教の基礎学です。古来、仏教を学ぶ者は必ず通らなくてはならない関門でした。私も学部4年生の頃に読ませて頂きました。とても難しい書物だったです。でもそれが今の私の仏教の基礎を作っています。ありがたい書物です。その倶舎論の教え、すなわち「一切法は有為法もしくは無為法のみ」という理解に立つとき、その範躊に含まれないプドガラが認められる余地はないわけです。犢子部によればプドガラは有為法でも無為法でもないものなんです。でも説一切有部では一切法は有為法若しくは無為法しかないのだ、と説いているわけですから、プドガラが認められる余地はなくなってくるんですね。それが仏教の基礎学になっちゃったんです。ですから、プドガラが認められる余地はなくなってくる。
更に、南アジア・東南アジアに広まった南伝上座仏教の大寺(マハーヴィハーラ)派も、犢子部のプドガラ実在説を異端の説として強く批判しました。異端になっちゃったんです。
仏教は、釈尊に始まる仏教は大きく分かれて三つのルートで伝播してるんです。北伝(漢訳仏教圏)、南伝(パーリ語仏教圏)、そしてチベット(チベット語仏教圏)に大別されます。これら三系統のいずれにおいても「無」と「有」の二つの潮流があったとして、「無」の潮流ばっかりがもてはやされたんです。そして元々あった「有」、何かが有るんだ、だから霊魂が有るんだと認めていく潮流が、いずれの系統においても批判的に扱われるようになってしまって、消えてしまっていたんです。
これが今まで続く仏教の流れなんです。元々は「有」の潮流が仏教にはあったんです。ここまで押さえておいて下さい。
飛びまして、日本人の他界観に入ります。
4.日本人の他界観
日本人は昔から、古来、これは古事記にもあります、死後の世界に並々ならぬ関心(畏れ)を抱いています。イザナギとイザナミという夫婦の神様が日本の列島を作りましたよね。そして、イザナミが死んじゃう。黄泉の国に行っちゃう。で、イザナギがどうしてもイザナミに会いたくて黄泉の世界に会いに行く。そうすると、もう死者になっていて襲ってくる。恐ろしいけれども知りたい、関心を持つんですね。死者と触れあいたい、でも恐ろしい、という二律背反した想いを日本人は持っています。
なんで日本人は死者を畏れるかというと、死者の魂には、これは全然仏教の教理じゃありません、日本人が昔から持っている考え方です。死者の魂には死に起因する穢れ(死穢)が付着すると考えられてきたんです。だから、会葬御礼の中に「お清めの塩」が入っているんです。塩によって宗教的な意味で穢れを浄化しようということを考えたんです。で、この死穢がくっついてますから、きちんと死者の魂を浄化しないと、悪霊(崇り神)になってしまう。
話ちょっと先走ります。だから日本人は一所懸命お葬式するんですよ、年回忌法要するんですよ。死者を祟り神にしちゃまずいからなんです。そして、供養することで立派な神様(守り神)に成ってもらおうと考えたわけです。戻ります。
また、死者の魂には生前の個性が反映されるんです。ですから怨みをもって死んだ人の魂は、特に悪霊になりやすいんです。歴史好きの方はご存知だと思いますけど、崇徳上皇ですね、平安末期に顕れて日本一の大魔王と言われたんです。保元の乱を、クーデターですね、失敗です。保元の乱を起こして失敗して讃岐に流されたんですね。あの讃岐、香川県、とても良い場所なんですけれども、昔は朝廷、都から離れた場所として流刑の地にもなっていたということです。そこで、恨み死にするんですね。で、平安末期に彼は朝廷に呪いをかける。今までこの日本の王と言えば天皇だったけれども、私が今から呪いをかける、これからは天皇でも何でもない者がこの国の王になるのだ、天皇朝廷は没落するのだ。と呪いをかけて、実際そのあと、鎌倉時代を迎えて、ずっと武家の世が続くわけです。朝廷が政治権力を失う。明治に至るまで朝廷の人間は天皇朝廷が権力を失ったのは、崇徳上皇の呪いの所為だとずっと信じていたんですね。それくらい恐ろしい祟り神です。
また、菅原道真さんも有名な祟り神ですね。讒訴されて太宰府に流されて、そこで恨み死にをして朝廷に様々な仇をなす。そういう仇をなす者をどうすれば良いかというと、祀ると良いんですね。死者の魂はきちんと祀れば、浄化されて祖先神(ご先祖さま)となり、子孫を守護する。たとえ、崇り神でも、浄化されれば善神になる。実際、崇徳上皇は今、京都の白峯神宮に祀られている。また菅原道真は日本各地にある天満宮に祀られているんですね。
こういう観念を日本人が持っているということを確認しておきましょう。これは仏教や神道の理論とは関係ないんです。日本人が元々持っている、いわゆるエートス、日本人の気風です。誰もが持っている、誰かから教わるわけではなく自然と持っている感覚です。こういう感覚を日本人は持っているんです。
5.「仏説」とはなにか
「仏説」とは何か。それを規定した重要な教えがあります。載っているのは、これも原始仏典、初期仏典です。『増支部経典=アングッタラ・ニカーヤ』の第4巻に載っています。原文は此処(資料5頁註1)に載っています。これ滅茶滅茶大事なことが書いてあるんです。訳すとこうなります。「何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の直説である。」これ、逆じゃないんです。釈尊の直説は善く説かれたものである、じゃないんです。何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の直説である、たとえ誰が説こうと。
善く説かれたものとは何か、それは迷える衆生を救うものです。言説によって迷えるものを救う、そういうものであれば全部釈尊の直説とみなす、これが仏教の根本的特性なんです。だから大乗経典は仏説なんですよ。よく大乗経典は釈尊の入滅後に出来たから非仏説であるという方がいますけど、その方はこの仏教の根本的特性を分かってない。仏教では釈尊が説いたから仏説になるんじゃぁないんです。人々を救う言葉は全部釈尊の言葉になるんです。それが仏教という宗教の根本的特性なんです。
仏陀の言葉、もちろんこの定義はここです。その仏説とはオールマイティな神の声ではありません。例えば新約聖書、「ヨハネによる福音書」。新約聖書の心臓部は福音書という部分です。イエスという人の言行録ですね。「ヨハネによる福音書」は、こう始まります。「初めに言葉がある。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」つまり、神の声が神そのものとなってオールマイティ。だから、この言葉に従えという命令型の宗教が出来上がったんです。教えに従え、従いなさい、この言葉に従え、という命令型の宗教が出来上がったんです。
ところが、仏教に於ける仏陀の言葉というものは、そのような命令に従わせるような言葉じゃないです。相手に応じて出てくるんです。時・処・人・苦悩・願いの違いに応じて個々別々に処方された治療薬、だから沢山あるんですよ。大蔵経っていっぱいある、とても読み切れないじゃないですか。あんなにいっぱい出来たのは、このように、違いに応じて個々別々に処方された治療薬だから、いっぱい増えたんです。
で、先程見た「毒矢の譬え」というのは、マールンキャープッタに対する治療薬なんですね。彼マールンキャープッタは“世界の謎全てが解決しない限り修行をしない”と宣言したに等しい。たとえ釈尊が彼の疑問十個全てに答えたとしても、マールンキャープッタはさらに、じゃこれはどうでしょうか、これはどうでしょうか、さらに別の疑問を次々と呈するであろうことを釈尊は見抜かれていたんです。ですから、「マールンキャープッタには、私が説いたことだけが全てであり、それ以上は問うな、と受け止めさせよう」という配慮をなさったんです。先の「毒矢の讐え」に於いて、しつこい位に「マールンキャープッタよ」「マールンキャープッタよ」という呼びかけがありましたよね。まさしくあの呼びかけによって、この教えはマールンキャープッタに向けたものなんだということが明言されていたんです。私たち向きじゃないんです。私たち日本人向きじゃないんです。私たち日本人は霊魂や死後の世界があった方が安心する人達なんです。あれはあくまでマールンキャープッタ向けだったんですね。
日本人の願い。日本では亡くなった方を神(祖先神、ご先祖さま)・仏(仏さま)として畏怖し、敬い、お祀りしてきた伝統があります。というと、仏というものは、修行して覚りを開いて仏なのであって死んだから直ぐ仏に成れるもんじゃない、なんてことを言う人が居るんですけど、その方は仏教を分かってない。ここで見た部分繰り返します。「何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の直説である。」
方便(ウパーヤ)。ウパーヤとは救済という意味ですが、元々は接近という意味もあります。仏さまが私たちの側に近づいてきて下さって、私たちの手を取って導いて下さる、その為に近づいて下さる、接近という意味です。それが方便(ウパーヤ)という意味です。救済という意味を持っています。仏さまが私たちを救うために私たちの元にやって来て手を引いて下さる、それが方便です。方便(ウパーヤ)、救済、まぁ仏教でいうと「くさい」と読みますが、救済(くさい)の力(りき)に基づいて生み出された、人々を救い、安寧に向わせる教えであれば、それを「釈尊の直説」と見なすのが仏教の根本的特性です。
日本人が仏教に最も強く望んだのは、仏教の力をもって除災招福を実現するとともに、死者の魂を浄化し、祖先神を強化することです。それを日本人は望んだんです。日本における葬式仏教は、日本人の心を安んじるため、方便の力が発揮されて形づくられた「釈尊の直説」に他ならないんです。
日本人は、亡くなった方が仏教の力をもって死穢が浄化され、清浄なご先祖さま・仏さまと成ることを願いました。そしてご先祖さま・仏さまからの守護・加護を希いました。これが日本人のエートス(気風 ethos)なんです。
「世界の謎全てが解決しないと安心できないんだ」というマールンキャープッタ的人間ではなく、「魂・永遠のいのちがあると安心(仏教的には「あんじん」)できる」や「死後の世界があると安心できる」という人には、霊魂の実在や死後の世界を堂々と説いたら良いんです。何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊の直説だからです。堂々と説いたら良いんです。
仏教という宗教は、「教義を固定化しない柔軟さ」と「柔軟であるがゆえの強靭さ」、この二つを兼ね備えています。とても柔軟です、仏教としう宗教は。硬直化していると、ポキンと折れてしまいます。柔軟であるが故に強靱なんです。我々はこの柔軟さを失ってはいけないんです。
6.〈中道〉とはなにか
中道とは何か。中道も非常に誤解されています。ですのでインド語原文に遡って、中道を見てみましょう。
これまた初転法輪に於いて中道が説かれます。『律蔵』の第1巻に載っています。釈尊が五比丘に向かって説きます。「比丘たちよ、出家修行者は二つの極端(二辺 anta)を行なってはならない。(中略)比丘たちよ、如来は二辺に近づくことなく、仏眼を生じさせ、仏智を生じさせ、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通ずる中道(madhyam? pratipad)を、目の当たりに覚ったのである。比丘たちよ、如来が目の当たりに覚ったところの、仏眼を生じさせ、仏智を生じさせ、勝れた智である菩提、寂滅の境地である涅槃と通ずる中道とは何かと言えば、それは八正道である。則ち、一、正見。正しい教え(saddharma)に基づく正しい見解。二、正思。正しい見解に基づく正しい意業。三、正語。正しい意業に基づく正しい口業。四、正業。正しい意業に基づく正しい身業。身口意の三業を整えます。そして五、正命。正しい三業に基づく正しい生活。仏教に於ける正しい生活とは身口意の三業を整えた生活であることがわかります。六、正精進。正しい生活に基づく正しい努力。精進、正しい精進。「精進せよ」と言っても、それは正しい生活が出来てはじめて正しい努力が出来る。正しい生活を出来ないで努力は出来ないということがわかります。七、正念。正しい努力としての正しい注意力。いわゆるマインドフルネスですね、これ。マインドフルネスはこの注意力、正念、インド語のスムリ、これの英訳がマインドフルネスです。そして八番目、正定。正しく注意力を払い正しく〈自分〉を定める、である。比丘たちよ、これが、如来が目の当たりに覚ったところの、仏眼を生じさせ、仏智を生じさせ、勝れた智である全き覚り、寂滅の境地である涅槃へと通ずる中道なのである。」
で、これが提示されたとして、さあ、これが中道だよ、八正道だよ、やってご覧なさいと言われて出来るかと言われたら出来ないんです。何故かと言うと、「何が正しいのか」ということが具体的に全く触れられていないからなんです。正しくしなさいよと言われても、何が正しいか分からない。でもそれが実は大事なんだ。八正道において何が正しいのかが明示されていない点はとても重要なんです。何故かと言うと釈尊は、私は中道を実践して仏陀に成った、中道とは八正道である、そして繰り返して、私はこの中道、八正道を通じて仏陀に成ったのだ。つまり、人が仏陀に成っていく、人を仏陀に成仏へと導くものであれば全部正しい。相手を菩提・涅槃へと導く道が正しい道で中道なんです。人によって変わって構わないんです。
これは医師が治療を施すのに似ています。眼病の人には点眼薬。お腹の痛い人には腹痛止めの薬を。骨が折れた人にはギブスを施します。そして全てそれを施す治療によって患者は健康を取り戻す。ゴールは同じなんです。でも症状が違う以上、治療は違うんです。違って構わないというのが、この中道なんです。
右と左がある時に真ん中を取るのが中道ではありません。それは中庸というものです。中道とは無関係なんです。儒学や朱子学で重んじられるのが中庸ですね。仏教の中道と中庸は全く違います。相手に応じた勝れた薬であれば全部中道なんです。相手を菩提・涅槃へと導く道(善く説かれたもの)善説(善く説かれたもの)であれば、それは全て仏説だということです。
7.霊魂はあるのか<>BR>
そもそも仏教に於いて霊魂はあるのかどうなのか。そういうことに入っていきますけれども、『相応部経典』の44−10に、「有無の二辺を離れる」ということで、こういうふうに説かれています。これも原始仏典です。初期仏典です。
「“アートマンが存在する”と断定すると常見(慢心の原因の一種)に陥るし、“アートマンが存在しない”と断定すると断見(虚無主義の一種)に陥る」と明確に釈尊が説いているんです。アートマンが存在すると断定してもいけないし、アートマンが存在しないと断定してもいけないのだ。そして、個別の治療薬としては、有我も、無我も有るんだというのが『中論』です、龍樹菩薩の『中論』の第18節。18章の第6番目に、こう説いています。「諸仏によって“アートマンは存在する”と暫定的に、つまり治療薬としては説かれた。“アートマンは存在しない”とも治療薬として説かれた」と、かの中観派の祖とされる龍樹菩薩が説いているんです。
つまりこういうことです。仏教徒全員に通用する真実(四法印や中道など)と同レベルで、種々の対象を“ある”“ない”と断定することは、治療薬の固定となり、中道に反する二辺(極端 anta)となる。つまり、霊魂があることを仏教徒(いっぱいいます。インド、南アジア、東南アジア、チベット、中国、朝鮮半島、日本、その他、今、欧米にも広がっています)全員に通用する真実として極端になり、霊魂がないことを仏教徒全員に通用する真実としても極端になる。逆に言えば個別の治療薬に於いては、霊魂(アートマン)も認められているわけです。
そして、アートマンの実在を説く経典の代表が『大乗涅槃経』『勝鬘経』など(仏性buddhadh?tu・如来蔵tath?gatagarbha)=アートマン(?tman)を説く経典です。仏性を説く経。仏性ってアートマンなんです。そして日本仏教は仏性説が基本のひとつです。我々日蓮宗もそうです。お祖師さまも仏性説に乗っ取っていらっしゃいました。
そして『楞伽経』という経典は、仏性と阿頼耶識(業の担い手)を同一視して、これによって、アートマン=仏性=阿頼耶識=輪廻主体(いのち)=霊魂という図式が仏教内で出来上がっています。出来上がっているんですよね。初期仏典(原始仏典)は仏説で大乗仏典は非仏説だという誤解がある。非大乗、大乗を問わず、仏教における教説は全て個々別々の治療薬です。ただし『法華経』は除く。法華経って仏教そのものなんで、これは今回のテーマに外れるので述べません。各寺院に配られている『全国布教師会連合会会報』の第27号、2015年に配られている、この中で私が詳しく法華経って何かっていう話をさせて頂いていますので、この議論はそちらに譲らせて頂きます。
アートマンの話に入ります。『涅槃経』です。迦葉菩薩が問います。「果たしてこの輪廻する世界に、アートマンはあるのでしょうか。それともないのでしょうか。」釈尊「アートマンとは仏性のことである。仏性は一切衆生に存在する(一切衆生悉有仏性)が、それは諸々の煩悩に覆われていて自分の中に存在しているにもかかわらず、衆生はそれを見ることができないのである。たとえばある村の貧しい者の家に、無尽蔵の金の鉱脈があったとしよう。そこには一人の婦人が住んでいたが、自分の家の地下に金の鉱脈があるとは知らず、貧しい生活を送っていた。そこで、人を導く術に長けたある人がその婦人に、“婦人よ、こちらに来なさい。私はあなたに報酬を与えるから、家事をやっておくれ”と言うと、彼女は“もしあなたが私の息子に宝を示してくれるなら、私は参りましょう”と応えたところ、(中略)彼は“お前の家には金の鉱脈があるにもかかわらず、お前は知らないのだ。(中略)”と言って、(中略)そこで彼は家の地下から金の鉱脈を取り出して彼女に与えたのである。彼女はそれを見て驚嘆し、彼に帰依をした。それと同様に善男子よ、仏性(=アートマン)は一切衆生に存在するのだが、ただ見ることができないだけなのである。貧しい女の家の地下に金の鉱脈が存在していたように。」
『大法鼓経』という経典があります。「この『大法鼓経』もそれと同様に希有である。それはなぜかといえば、如来は入滅したにもかかわらず“依然としてここに住し続ける”と言い、アートマンも我がものという観念(我所)もないと信じてきた者たちに向かって、今再び“アートマンはある”と説くからである。」同じく『大法鼓経』。「一切衆生・一切生類に仏性があって、無量の妙なる相好によって荘厳され光り輝いており、これを因として諸々の衆生は涅槃を得るのである。」そして『楞伽経』です。「仏性は無始爾来、種々の煩悩にまとわりつかれているので、アーラヤ識(阿頼耶識)と呼ばれる。」そして『宝性論』。「仏性は(中略)思惟すべきものでも、分別すべきものでもなく、ただひたすら信解すべきものである。」同じく『宝性論』「信によらなければ、諸仏の最勝の道理である仏性に通達することはできない。」同じく『宝性論』。「仏性(中略)は諸仏の境界であって、たとえ清浄な衆生であっても思議することは不可能である。」『勝鬘経』。「勝鬘夫人『世尊よ、本性清浄な仏性が、客塵煩悩によって汚されていることは、諸仏の境界であって、思議することはできないものと私は思います。』(中略)釈尊『勝鬘夫人よ、まさにその通りである。(中略)ただ諸仏を信じるほかはないのである。』」
仏性がある、アートマンがあるのだということは、信によって通達されるものであるということであります。信に依らないと通達できないということは、信によって通達出来る、ただ諸仏を信じる外はないというわけです。
8.ロゴスとパトスとエートス
最後のチャプター。ロゴスとパトスとエートスです。ロゴス(logos)、理性ですね。パトス(pathos)、篤い信仰心。そして、エートス(ethos)、気風。我々は大学教育を受けた方が多いと思いますけれども、大学で教わる学問というのは、理性、ロゴスに基づく、理屈に基づいて教わるわけです。冷静な教育です。ところが我々僧侶の修行や布教というものは、篤い信仰心、パトスに基づいています。理屈じゃないんです。しかし、日本の仏教というものは、日本人のエートスや状況に応じることによって、今日まで発展・存続してきたんです。
ロゴスを前面に出すと失敗するわけです。あぁお坊さんの話、何か堅苦しくて難しくて分かんないやってなっちゃう。ロゴスを前面に出すと失敗しちゃうんです。逆に言えばですね、前面に出せないロゴスしか今ない点が問題なんです。本当はロゴスを前面に出して、なるほどそうか分かったぞ、というふうに思って貰わないと本当はいけないんです。今のロゴス、大学教育は前面に出せないロゴス。理屈っぽいんです。また、パトスを前面に出してもうまくいかないんです。お坊さん一人が熱くなってしまう。パトスというものは価値観・世界観を共有したものの間でしか通用できないんです。
私が思うのは、エートスに注目すべきだろう。実際に日本仏教は日本人のエートスに則ってきたわけです。さらには時代や環境にも配慮。それらに応じて教学(口ゴス)を再整備し、修行・布教(パトス)を実践していく必要がある。エートスに基づいてから、ロゴスを整備し、そしてパトスを実践していく。なぜならば、実際に釈尊、お祖師さま、先師の方々は、そのようにされてきたわけです。本当に釈尊、お祖師さま、先師の方々を慕うのであれば、その方々の模倣をしなければ我々はならないのです。
仏教徒の定義がありまして、「釈尊に信順し、釈尊を規範となし、そして釈尊を模倣する人々の総称」です。これは「釈尊」を、お祖師さま、先師の方々と読み換えても全く同じです。ここでいう模倣とは全く同じ行為をするということではありません。日本人のエートスを基本とし、時代や環境にも配慮する。そしてそれらに応じて教学(ロゴス)を再整備し、修行・布教(パトス)を実践する。
口ばっかりだと思われがちなので、そのささやかながら私なりの実践というものを2点出してあります。それが、『釈尊の遺言』という論文でして、これです(『釈尊の遺言』−その現代的メッセージを読み解く−、『山口県立大学大学院論集』7、2006、pp.1-18)。私のホームページ、「鈴木隆泰」とグーグルで入れて頂ければ私のホームページに行けますので、そこにPDFで貼り付けてあります。『釈尊の遺言』という、もちろんPDFで無料で読むことができます。『釈尊の遺言』−その現代的メッセージを読み解く−。釈尊の残した言葉から、それがどういう意味で今読み取れるのか、ということに挑戦してみました。
それから『葬式仏教正当論』(鈴木隆泰、『葬式仏教正当論一仏典で実証するー』、東京:興山舎、2013)という本も書かして頂きました。これも私のこのエートスに基づいた仏教再構築の営みの一つです。
そういうふうにエートスに着目しながら再構成していかないと、釈尊や、お祖師さま、先師の方々が、昔偉い人が居て、昔こういうことを仰有っていた、昔の偉い人はこう仰有っていたのだというレベルに止まってしまうんです。今通じる言葉にしないと「過去の聖人」になっちゃうんです。ということは、仏教そのものが「過去の宗教」になってしまうんです。
そのためには、まず私たち自身が、ロゴスとパトスとエートスを協調して一致させなければいけない。頭で考えていることと、身体で行っていることと、胸の奥底で実は感じていることが、バラバラになってしまってはダメなんです。我々が一致して、なるほどと心の底から納得して、布教をし、実践をしていく。
それの更に試みが、日蓮宗新聞社から100円で頒布している『お題目で送るお葬式』(鈴木隆泰、『お題目で送るお葬式−「南無妙法蓮華経」のお葬式・その意味と功徳−』、東京:日蓮宗新聞社、2018)という小冊子です。
また、現宗研の「チーム古河(こが)」というグループがありまして、そこで作ったのが、『葬儀プロジェクト報告書』という報告書です。これは日蓮宗の教師専用サイトございますよね。あそこに現宗研の出版物というものの見られるところがありまして、そこに今やPDFで載っています。公開されているものですが、その結論の部分を引っ張ってきました。この中では、お祖師さまの御遺文を沢山引っ張ってきまして、お祖師さまの御遺文が如何に日本人のエートスに寄り添っているかということを示しました。それが、此処(資料)に書いてある「前説の引用箇所」です。「前節の引用個所からも分かるように、日蓮聖人の他界観はインド伝来のそれとは異なり、日本人の他界観をほとんどそのまま反映している。」つまり日本人のエートスに添っているということを示したわけです。「その象徴として、死後に魂が赴く(往詣する)浄土がこの世にある霊山という山である点と、その際に往生という輪廻転生を経験しない点(鈴木[2018])、追善供養が可能な点などを挙げることができる。したがって本宗の場合、「日蓮宗としての葬祭仏教」を教義レベル(ロゴスのレベル)で整備することが可能であると判断される。これは本宗の大きな強みとなるであろう。(鈴木隆泰ほか、現宗研葬儀プロジェクト報告書、『現代宗教研究』53、2019、pp.314-327。)
是非今後私は、むしろこれは独りでは出来ません。みなさんと手を携えて、日蓮宗としての葬祭仏教をエートスに基づいて、日本人のエートスを基本として、ロゴスを再整備し、修行・布教を実践して行く、そういう場に日蓮宗がなっていければ、もしそれがなれば、もっと力を発揮出来るはずですし、このお祖師さまの教え、法華経の教えというものが、もっと日本人として世界の人々に伝わっていくようになると、私は信じております。
是非今後皆さまと、このように手を携えて進んで行けたらと願っております。ご清聴ありがとうございました。南無妙法蓮華経。
| 以上 |
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質問者1:
感激を致しました。眼からウロコでございます。一つお聞きしたいんですけども、日蓮宗でよく仏性ということと同時に、仏種という言葉をよくお題目の解釈とかで使うことがあるんですけども、或いは仏種に添って下種をするんだ、お題目で下種をするんだというこういう解釈をよくするんですけども、先生の中に仏性ということは出てくるんですけども、仏種ということをどういうふうにお考えなのか、ちょっとお聞かせを願いたいです。
鈴木先生:
ありがとうございます。インド仏教の文脈でいうと仏性と仏種は同じ物のはずです。ところが仏種を植えるという発想が出て来ますと、元々仏性というのは万民に有る訳ですね。ところが仏種を植えるという発想をすると、元々は無いものを植えてあげるという意味になってきます。ですから仏種を植えるという発想はインド仏教そのものではなく、それ以降の発展のものだと思います。そういう理解をしております。
質問者1:
先生、私よく分かんないんですけども、仏種というとどうしても種になって、仏性というと畑ということを考えるんですけども、畑が無いと種は生えないし、畑だけでも種が出てこないというような解釈は間違いでしょうか。
鈴木先生:
インド仏教による限り、仏性は畑という考え方は無いですね。どっちかというと種の考え方の方が強いです。例えば、『如来蔵経』という経典の中には、明確に仏性が種であるという教えが出てきます。
質問者1:
はい。ありがとうございました。
質問者2:
よろしくお願い致します。今日のお話しは全部すんなりストンとこう心の中に入ってくるような思いで、とてもありがたく拝聴しておりました。一つだけ、教えて頂きたいんですけれども、霊魂、魂の話になると輪廻というところに繋がっていくだろうと思うのですけれども、現実問題として、今、人生の最後を認知症のような形で正常な若々しい精神状態ではない状態で最期を迎えていかざるを得ないという人が居られるわけでありますけれども、そういった方々の魂のあり方、あるいは認知機能が衰えた状態で輪廻していくのだろうか、という大きな不安を、今、持って居る方々本人も勿論ですし家族の方も居られると思うんですね。そういう方々に対してどういうふうに、お話しをしていったらいいのだろうかということを鈴木先生の考えをちょっと教えて頂ければありがたいと思います。
鈴木先生:
いつもありがとうございます。まず輪廻ということですけど、輪廻するんだったら話は簡単で生まれ変わってますから、例えばどんな病気を抱えてらっしゃる、それが認知症であったり不治の病であったとしても輪廻した瞬間に生まれ変わりますから、全部それはリセットされる。輪廻をするのであれば。往生は輪廻ですから。我々日蓮宗は往詣を説きますので、そっちの方がより重要な、病気を持ったりして亡くなった場合に、輪廻を経験しない往詣をする。我々のところに、それ、とても重い問題としてのしかかってくるような気がします。
質問者2:
としますと、霊山往詣という言葉を私たちは使うわけでありますけれども、生前も霊山と釈尊にまみえることが出来る、しかし亡くなった後も霊山浄土に赴いて釈尊、日蓮聖人と一緒に居られる場所に行くという感覚を持つわけですけれども、その行く時に認知機能が落ちたままで行ってしまうんでじゃないかという、そういう不安を持ちかねないという、その辺のところをどう考えたらいいかということで。
鈴木先生:
霊山浄土は浄土ですから、もう清らかな場所ですよね。そこでは六根清浄を得ていますので、法師功徳品に説いているように、法華経によって六根清浄になっていますんで、病気も全て治っていると考えてよろしいんじゃないかと思っていますが、如何でしょうか。
質問者2:
ありがとうございます。また考えてみたいと思います。ありがとうございます。
質問者3:
まだ詳しくないので何とも言えないんですけども、先程、法華経の教義において大きな枠組みを示されて、その中に個々の御経があるという解釈をしていらしたのですが、法華経のみを見ますと、ある意味でその処方箋、個々の処方箋が抜けてしまっている状態になりませんか。つまり、法華経のみであると薬を含まない状態になってしまう、というふうに解釈も可能なのかなと思ったんですが。
鈴木先生:
実際に江戸時代、平田篤胤という国学者がそういう解釈をしていますね。法華経は効能書きばかりで丸薬が入っていない。法華経は法華経自身にちゃんと丸薬を持っております。それが法師品以下の部分です。大丈夫です。
質問者3:
どなたでも覚ることが出来るという、ある意味広い枠組みを持っている。
鈴木先生:
はい。そしてそれが覚れるんだということを保証しているところです。
質問者3:
ある意味で、禅とかにある、身体を用いたメソッドというものは持たないではないかという、その、何て言えばいいでしょう。禅とかの考え方だと、つまりロゴス的な部分の解釈にプラスして、実践値というか身体を用いた実践によって、覚りを得ていくというか、仏性を目覚めさせていくっていうプロセスが明示されていると思うんですけれども、それはそういったもの無しで、ある意味教義のみで、あなた覚れるんだよと言っても、やっぱり凡人にはなかなか難しいというか、ある程度の普遍化されたメソッドみたいなものを用いないという解釈をしているんですけれども、それについてはどうお考えでしょうか。
鈴木先生:
面白いと思います。ただ若干位相が違っている気がするんですね。禅についても仏教のインドの経典だけ見ると割と理屈っぽいですよ。それを中国、日本と、曹洞宗や臨済宗が出てきたことによって、むしろメソッドが出来上がってきたわけですね。ですから法華経というインドの経典があって、それに基づいて日蓮聖人がお題目というものを説かれた、そこまで見てくれば、禅と何等変わっていないメソッドがあると思いますけれども、如何でしょうか。
質問者3:
わかりました。はい。そうですね。わかりました。もうちょっと勉強してみます。
質問者4:
今日は鈴木先生ありがとうございました。今の質問のこと、ちょっと気になったんですけども。法華経の中に空とか四聖諦とか十二因縁とかざっとだけど書いてあって、それを全部踏まえた物として法華経を読みなさいというのか、そういうんじゃないかと、その中に私は入っているんじゃないかと思います。私の質問というのは、さっき認知症で亡くなったりとか、そういう方はどうなるっていうことが、亡くなっちゃうと霊魂になって、何ていうのかな、それこそリセットされるじゃないけど、肉体の苦しみとか、そういう心の病とかいうものも無くなって霊魂になっていくんじゃないかと思うんですけれども、如何でしょうか。
鈴木先生:
悪いところは全部無くなるわけではないというふうに考えられます。たとえば浮気性の人っていうのは浮気性の魂になると思うんですね。だから追善供養が必要になってくるんだと思うんですね。だんだんだんだん、より立派な仏さんになっていくわけです。仏になるのは、引導文を渡した段階で仏に成るわけですけども、初心者の仏としてまだ低いレベル、初段なんです。まだ初段というより級の段階で、何級という級の段階でして、そこからだんだんだんだん階級を昇っていく、そんなふうに考えておりますが。
質問者4:
はい。わかりました。
司会者:
それではこれで閉会とさせて頂きます。鈴木先生、どうもありがとうございました。
| (Zoomでの、質疑応答の様子)
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NVNニュース第25号をお届け致します。ご意見ご感想をお待ちしております。
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NVNウェブサイトに、いろいろな資料を掲載してあります。ご利用下さい。
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