「ES細胞、iPS細胞、再生医学の原理と課題」
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立正大学社会福祉学部 溝口 元 先生
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はじめに:延命治療の現状
「重篤な心疾患に陥り、医師より余命3ヶ月の告知を受ける」という場面を想定し考えてみましょう。
こうした場合の選択肢は4つです。現代の医学から考えると余命は適確に予想されています。3ヶ月〜半年、半年〜1年、1年〜1年半、頭と終わりを言われていれば、その間になくなることが殆どです。選択肢としては4つ、4つ以外にはないであろうと思われます。「生き延びたい」と考える、生き延びる手法です。
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〈選択肢1〉
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・ | 延命治療の実施
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・ | 臓器移植(心臓移植)
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・ | ヒトからヒトへ(人間の心臓を人間に移植)
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・ | 臓器移植法に則り、原則、本人が脳死は個体死であることを認め、かつドナーカードに「生前の意思表明」として臓器提供を望んでいる方から臓器提供(心臓)を受ける
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臓器移植の問題点は、提供数が少ない(臓器移植法が2010年に改正されたが依然必要数をはるかに下回る)、高度・高性能の免疫抑制剤を使用しても拒絶反応が起こる場合がある、高額医療費の問題(心臓移植であれば1億円以上が一般的といわれる)、仮に手術が順調であっても日常生活に支障が出る場合(心臓の動きと体の状態)がある、などがあります。
自分は自分であって、他者の臓器なり何なりが体に入ってくると拒絶反応が起こってきます。自分は自分、非自己は非自己なのです。自己は非自己を排除します。唯一許されるのは、妻にとっての男の精子だけで、異物が侵入して新しい生命が生まれるのは免疫学的寛容です。最近の事例では、夫の精子を拒否するという女性も居ます。赤ちゃんが欲しいけれども産まれないというのに精子を受け付けても受精しないという免疫学的寛容が壊されている例も報告されています。そのために、他者のものではないと思わせることをするために免疫抑制剤が必要となります。
高額医療費については1億円以上かかるというのが一般的で、全てのあらゆる医療の中で高額な医療が心臓移植です。
アメリカでは心臓移植が多く行われたことによって、いろんなことが分かってきました。自分に合った心臓が提供されて、拒絶反応も起こっていないが、元々の自分の心臓と同じように動いてくれるかどうか。寝ている時には心臓はゆっくり動き、運動している時には心臓は早く動きます。私たちの体の状況に応じて動きが速くなったり遅くなったりします。ピッタリくっついた他人の心臓は、ゆっくり動いたり早く動いたりすることが可能なのか。アメリカの事例では寝てる時は良いが運動する時には辛いという報告があります。
ガンの場合、5年間再発しなければ治った、医学的治療としてはうまくいったということになりますが、心臓移植の場合、5年間、過半数以上は5年以上生存可能となります。1億円以上かけて5年の命ということは5年間で1億円、1年間で2千万です。生き延びる為には1日5万円以上払って延命しているということになります。
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〈選択肢2〉
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・ | 延命治療の続行
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・ | 臓器移植(心臓移植)
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・ | ヒト以外の動物からヒトへ(異種間移植)
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先行事例として、1984年米国で先天性心疾患が認められた生後2週間目の新生児に生体ヒヒの心臓を移植し、3週間後に死亡しました。生命倫理上の問題は固より基礎研究不足、時期尚早、売名行為等々の批判がありました。
2016年4月10日の朝日新聞記事に「動物から人 移植容認へ」とあり、医用ブタを用いた再生医療等製品の開発支援サービスが掲載されています。心臓提供者が少ないので、ブタの臓器は人間に利用可能になりそうです。
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〈選択肢3〉 移植医療以外
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・ | 延命治療の続行
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・ | 全置換型人工臓器
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・ | 補助心臓の利用
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本物と同じ大きさで同じ重さで同じ働きをしてくれるものを体の中に埋め込んでしまうという方法です。最終目標は、部分的に機能が代行出来るもの=補助心臓を埋め込むことです。脳死の問題もクリアできるし、動物から移植という問題もクリアされます。
全置換型人工心臓は、現在、鋭意開発中ですが、仮に出来た場合に寿命はどうなるのでしょうか。心臓病を患っている方に人工心臓を提供した場合の方が長生きをすることになります。一般には心臓病だったから早く亡くなったというのは納得しますが、人工心臓を止めていいのか、自動的に止まるようにするのか、止めるようにするのか、何年後に止まるというのを告げるのかどうか、などなど実際に出来てしまうと、いろいろな問題が出て来ます。
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〈選択肢4〉
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・ | 延命治療の拒否(実質的に受けられないため)
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・ | 残された余命を精神的に充実し、精一杯生きる
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・ | 現実的には、この選択を取らざるを得ない
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心臓移植以外回復の見込みが厳しい方は年間2000人ほど居ますが、一方、臓器提供は数十例に留まっています。
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小括1
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以上考えてきたように、現実的には「何もしない」という選択にならざるをえませんが、今日、目を見張るような先端医療技術があるのに、これで良いのか(敗北主義)という議論があります。そこで登場するのが再生医療で、世界的に力を入れられています。
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再生医療
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再生医療の法律上の定義は「身体の構造又は機能の再建、修復又は形成」です。クローン作製、多能性幹細胞の利用、近未来的には遺伝子操作をして自己組織を体内で誘導させます。内閣府科学技術政策・イノベーション担当者によれば、損傷を受けた生体機能を幹細胞などで復元させる医療であり、臓器提供者不足などを克服できる革新的治療であり、従来法では治療困難である疾患・障害に対応可能であり、未来医療の実現に向けて世界各国が熾烈な競争をしているとのことです。
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クローン生物
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クローン生物は、遺伝的に全く同一の生き物を人工的に作成したもので、クローン化(挿し木の意味、生殖なしで植える)によって行われ、分化が進んだ組織細胞の核を抜き出し、核を除いた未受精卵へ核移植を行います。核移植胚から個体を形成し、核の全能性が証明されました。イギリスのガードンのカエルを使った研究(1962)からはじまっています。
クローン羊は、イギリスの羊毛産業から起こりました。良質の肉をもつクローン牛として、和牛(神戸牛、松阪牛等)、畜産業者、飼育農家の要望があります。クローン猿は1997年米国オレゴン地域霊長類センターで成功しました。クローン犬、クローン猫は2012年に話題になりました。ペット・ロスに堪えられないということで約500万円で作成できるそうです。ドイツ、デンマークでは研究禁止となっており、ローマ法王が生命の尊厳、神を畏れぬ人間の傲慢さであると不快感を表明しました。
クローン人間の可能性としては、外形上は同じものを造ることができるそうです。一卵性双生児は、クローン生物であり、理想の完全なクローン人間といえます。不妊治療は、国や自治体から補助が出されており社会的に認知されています。人為的な生命操作はすでに普及しています。
クローン生物への賛否は、個人の唯一性の喪失、人間をモノとして扱う行為、社会的価値観との衝突など、さまざまあります。
一回限りの人生だから価値があるのであって、グリーフワーク、グリーフケアが問題となります。技術的にはそう難しいことではないかもしれませんが、別の考えがあるのではないかと思います。
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幹細胞利用(ES細胞)
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ES細胞は、胚性幹細胞と訳され、1980年代初頭、英国・米国でマウスを使ってそれぞれ作成に成功しました。受精卵から発生した胚の内部細胞塊からあらゆる細胞に分化する万能細胞が得られます。しかし、受精卵を生命の出発点とすれば、新たな生命の可能性を奪うことになるとの批判もあります。出産時、一定程度成長した胎児こそ出発点とする考えもあります。日本では、鳴き声をあげて生まれた時が誕生であるというのが今の考え方となっています。他人のES細胞から作成した臓器は拒絶反応を起こします。そのため、自身の核をES細胞に核移植するという方法が考えられています。
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幹細胞利用(iPS細胞)
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iPS細胞は、人工多能性幹細胞と訳されます。ヒトから得た皮膚というすでに分化した細胞に、Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycと名づけられた4種の遺伝子を、遺伝子を運搬する働きがあるレトロウイルスを使って導入するとiPS細胞が得られます。このiPS細胞は、受精卵と同様に分化が初期化されたもので、あらゆる細胞になり得ます。また、ES細胞と違って受精卵を使わないので、倫理上の問題がクリアできます。
iPS細胞の臨床応用としては、2014年9月、理化学研究所、高橋政代プロジェクトリーダーによる、世界初のiPS細胞による再生医療の臨床治療実施があります。加齢黄斑変性症(目の網膜の黄斑と呼ばれる部分が変形し、視野が暗く狭くなる疾病)、レーザー治療でも回復せず、これまで不治の病と呼ばれていました。
iPS細胞の可能性としては、皮膚、心筋細胞、耳の軟骨、歯、毛、肝臓、すい臓細胞、などなど多くの研究が行われています。
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小括2
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クローン化は家畜では有効な場合もあります。羊の羊毛、和牛の肉など、経済的効果が期待されます。クローン人間は原理的には可能ですが、受容に関してはわかりません。ES細胞は受精卵を使うため倫理上の問題があります。iPS細胞は発がんの可能性がある遺伝子を使うという問題があります。また、成功率は現時点では高いとはいえません。1.8%くらいです。そこで登場するのが、STAP細胞で、発がん性はなく、iPS細胞よりも簡単に作成されると言われました。
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STAP細胞
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STAP細胞は、刺激惹起性多能性獲得細胞といいます。新生児マウスの脾臓から得た細胞を弱酸性の溶液に浸けると細胞が未分化の状態に戻り、胎盤を含むあらゆる種類の細胞になるというものです。
2014年1月30日、理化学研究所発生・再生科学総合センター(理研CDB)の小保方晴子(ユニットリーダー)、若山照彦(チームリーダー)、笹井芳樹(副センター長)、丹波仁史(プロジェクトリーダー)、ハーバード大学教授バカンティが英国の科学雑誌Natureに発表しました。
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もう一つの可能性
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記憶の種類には、陳述記憶(意味記憶、エピソード記憶)、非陳述記憶(手続き記憶、条件反射)など、さまざまな記憶があります。
脳に対する人為操作として、記憶を操作するということがあります。さらに脳科学へと進むと、マウスの脳の書き換えに成功したとか、アルツハイマーは記憶が呼び出せないだけであるとか、さまざまな研究がなされています。卓越した能力のある脳を誰かに移植できないだろうかとか、アメリカでは脳交換研究が行われるようになってきています。日本でも記憶を操作するということが起こるかもしれません。
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おわりに:もう一つの選択
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再生医療は、ES細胞の方が研究しやすいとのことで倫理か研究上の利便性かが問われます。欧米では、特許権、成功率から考えると、iPS細胞よりもES細胞に関心があります。ある種のがん細胞では、STAP現象がみられるとドイツの研究グループが報告しています。再生医療の次は、脳科学の可能性が高いと考えられます。
記憶をなくしてしまっても記憶の順番が変わってしまっても受け入れるという考え方があります。先端医療技術を使って何とか延命を考えても、無理が出てきていることはいなめません。「何が何でも延命」というよりも「老いる」ということを正面から考えるべきではないでしょうか。身体的特徴と寿命との関係が知られてきたことによって「老いる」ということを正面に据えて、じっくり検討するのもよいと思います。「美しく老いる」とは、最先端医療とサクセスフルエイジングを考えると方向性を示す一つの素材となるのではないでしょうか。「美しく老いるとは」を考えてみたいと思います。
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本日の話題の参考書
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『生命倫理と人間福祉』 溝口 元 (2016)
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質疑応答
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質問者:
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死後の世界の研究も進められ人間が死を迎え脳波が計測できなくても実際には数分間は生命活動をしていると聞きましたが、この時点で生き返った人が多分死後の世界を体験しているのだと思います。人間の脳は本当にまだまだ未知の世界であり、脳科学の研究が進めばまた違ったものがあると思いますが。
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溝口先生:
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人間の器質性、我々の脳の機能の最終段階の時のある状態で起こるのが臨死体験で、それを経験してもまた戻ってきてしまう人も極く希に居るということで、体験談は共通しています。死後の世界、生と死の境界のところで起こる出来事は何らかのことが起こると思います。もう少し研究が進んでくると記憶を自由に変えることが出来る、記憶の操作ができそうであると考えられます。
自分の身体を考えて、西欧流の人間機械論的発想、各個別の部品の集合体と考えると、部品が上手く働かなくなったら部品を取り替えるという考えがあります。21世紀以降、脳の問題、記憶の問題が出てきました。認知症の人が増加しており、記憶とはいったい何なのか、記憶物質があって記憶がある物質に閉じ込められているという考え方もあれば、記憶というのは神経の細胞のネットワーク、繋がり方であるという考えがあったり、記憶の研究によると、 記憶に関する特定の働きをする細胞がありそうだということが分かってきています。交通事故で記憶が部分的になくなってしまうというのはどういうことか、認知症の方の記憶を取り戻すことが可能かどうか、嫌なことは忘れたい、記憶を人為的にコントロール出来る可能性も出てきています。臓器移植とは別の形で私達の生命が変わってくる可能性があるかもしれません。
「死後の世界」の本が流行っていますが、生と死の境目はどうなっているのか、臨死体験の中身の共通性は何なんだろうかということが明らかになってくると、生と死と記憶の関係が明らかになってきます。有る人の記憶をそのまま留めたいという時に脳交換ということをしてしまう、脳に何らかの疾患が有る人が頸から下は健康であった場合に非常に勝れた脳があった場合その脳と交換するのは妥当かどうか、そろそろそういう議論をしておいていいのではないかと、神経交換倫理、脳交換倫理というのがささやかれています。記憶を伴った脳を残すことは可能なのでしょうか。東京大学には夏目漱石の脳が残されているとか、アインシュタインの脳が残されているとかありますが、神経の繋がりを調べることができますし、脳の研究がどうなっていくかを見ていきたいです。
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質問者:
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仏教では前世の記憶、阿頼耶識が輪廻転生というのを考えます。脳とは別の意味の記憶というものを考えます。先生はどのように考えられていますか。
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溝口先生:
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身体で覚えている記憶は意識しなくても特定のことが出来ます。事故や病気で身体の一部を失っても何かをしているという記憶は残っているといった、脳科学でいうと脳になりますが、広い意味でいうと記憶があるのかもしれません。
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質問者:
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人が持って生まれた寿命をどのように考えればよいのでしょうか。
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溝口先生:
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寿命というものを考えた場合、身体から逃れることは出来ません。生物学的には哺乳動物の寿命は生殖年齢の6倍が一応の寿命ですから、成人式が20歳(恐らく子孫を残すことが可能)、その6倍の120歳。寿命は、新陳代謝をしていく(細胞が分裂する)細胞分裂の回数が決められていて、テロメアというものが細胞分裂の回数を決めている、それを容認するかどうかでしょう。
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質問者:
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産婦人科学会では生殖医療をどう考えるか、歯止めをきかせておかないと恐ろしい状況になるのではないか、当たり前にしている体外受精も5、60年前はいろいろな議論がありました。iPS細胞を使ってその研究を無制限に認めるということになると、5、60年後にどうなるのか、研究者だけでなく、全体で議論して、コンセンサスをつくっていくのが大事かと思いますが。
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溝口先生:
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クローン技術、ES細胞、iPS細胞、同性愛者の方々が子どもを持つことが可能かどうかという問題に絡んできます。同性婚が気持ちよく生活できるようになっている社会、同性婚の方が子どもを持つということは、やろうと思えばクローン技術で出来なくもない。今では同姓カップルに関して認知されてきたが、子どもを持つことを認めるかどうか。伝統的親子関係、男女関係が急速に破壊されていく可能性があります。どのような言い分があるかを列挙して議論をしていって、議論をすればまとまり所が見つかるという状況ではなくなってきているのではないかと思っています。男女の関係、親子の関係は護っていきたいと思います。
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質問者:
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生命の始まりの考え方に三つ有って、受精卵の段階から人であるとする考え方もありますが、ES細胞、iPS細胞の段階から命あるものと考える事もできると思いますが如何でしょうか。臓器移植を受けた人がドナーの影響を受けるという話を聞くことがありますが、そういうことはあるのでしょうか。
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溝口先生:
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ES細胞を使うことの問題点ということで、実験的研究的には望みの臓器を作れるが受精卵を元にしているので問題があって、iPS細胞は新しい細胞ではないから良いという考え方ですが、iPS細胞は日本が特許を持っているので倫理問題を飛ばしてES細胞を使用しようという動きもあります。受精卵が生命の出発点で妊娠継続して出産すれば生命なんだろうけれど、出発点と言えば出発点ですね。
臓器移植を受けた場合にパーソナリティの影響があるという話を聞きます。それ以前の自分と何か変わったという自覚があってパーソナリティの影響と考えるのでしょうが、臓器が何か性格なり気質なりを持っているとは考えにくいのではないかと思います。臓器に刻み込まれた記憶というのが、認知、認識できるかというところかと思います。
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(以上、文責成田)
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