総会に引き続き、記念講演が行われました。
今回は、岩手県大槌病院仮設診療所心療内科医であり、NVN会員である、宮村通典先生と洋子夫人をお迎えして、「被災者の心に寄り添う」と題して講演を頂きました。
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宮村通典(みやむらつうてん)師 略歴
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昭和20年11月 | 長崎県大村市にて出生 大村育ち
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昭和48年3月 | 長崎大学医学部 卒業
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4月 | 九州大学医学部心療内科 入局
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| 消化器班でストレス潰瘍の研究
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昭和59年6月 | 宮村内科胃腸科クリニック 開業
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| (博多駅前)
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平成10年4月 | 身延山大学 在学
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| 科目等履修生として
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平成12年5月 | 日蓮宗教師(権大講師)となる
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6月 | 大阪豊能郡 真如寺にて山務
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平成14年4月 | 大村市観音結社(現大法寺) 教師
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5月 | 大村市中澤病院 就職
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| 理事・副院長として勤務
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平成24年4月 | 岩手県立大槌病院(仮設) 勤務
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現在 | 内科・心療内科医として勤務中
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以下、講演内容の要約を報告します。
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被災地で自分にできること
私には何か大それたものがあったわけではなく、人として、医師として、僧侶として何かしなければ。との思いが自然に生じ、その思いを行動に移したのが今の自分の形です。
「希望学」という学問があるのですが、玄田有史という先生の書かれた本の中に「希望とは、何かを実現しようとする思いである。行動することで」という言葉が出てきます。私は特にこの「行動することで」という部分に非常に共感を覚え、また宮澤賢治、雨ニモ負ケズには「行って」という箇所が実は4回繰り返されています。これは地涌の四菩薩とも重なり「行きなさい」「行動しなさい」との啓示と受け止め、背中を強く押してくれた様に感じました。また震災後、すぐに新聞、医師会報等で情報を収集し、平成23年9月に親戚のお見舞いに大槌町を訪れた際、そのあまりの被害状況に、物的支援のみならず、精神的支援、それも長期滞在での支援の必要性を感じ、このままではいけない。僧侶として、心療内科医師として自分にできることは何だろう。その強い思いから、大槌での今の私があります。
被災の状況を知る T
しかし、まずは自分の力量、出来る事は何かと立ち位置を確認することが必要でした。また何よりありがたいことに、妻が理解をし、協力してくれたということです。本当に助かりました。9月に初めて大槌を訪れて、翌年4月には住民となっておりました。
また、津波による大槌町の死者・行方不明者は1307名。この数は人口の約1割になります。つまり住民の10人に1人は死者・行方不明者であります。もうほとんどの方が、家族・親戚を亡くされているということです。
被災家屋は全壊が3,100戸。半壊が600戸。避難所へ行かれた方は6200名と、人口の約半分が避難所での生活を経験しております。また人口は2010年には15227名いた住民が、2014年には11833名にまで減ってしまっているという状況。まるで日本の縮図を見ているようであります。未だに全人口の3割が仮設住民であり、現在公営住宅を建設中ですが、ようやく3割程度完成したというのが今の現状でございます。
被災の状況を知る II
被災の状況を経時的にとらえる必要があるのではないかと感じています。1、急性期(1〜3か月)生命の維持。これは、生きる為に頑張ってこられた状況。急性ストレス障害などの症状が頻繁に見られる時期です。2、亜急性期(3〜12か月)会社に戻ったり、仮設に移ったり、情緒を持てるようになる半面、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの症状も多々見られます。3、慢性期(1年〜)生活の疲れ、心身の疲労などの現実的ストレスが見られる時期です。こうした時期の変化により必要な支援の状況も同時に変化するのではないでしょうか。
急性期とは
では具体的に見ていきますと、避難所での生活というのは、皆生きるために日々頑張っておられます。生きる事への本能が働き、とにかく自助の精神で頑張っておられる訳です。また集団生活になると、集団としての本能が働き、共助の精神で頑張る訳です。助け合い、思いやり、結束、絆などのお付き合いが生じてきますが、うまくいく人もいればやはり苦手な方もいて、様々なストレスが生じる時期です。
また使命感、自己同一性の維持として、「制服組」というのがあります。自分の家族が津波に流されて行方不明になっているにも関わらず、患者のため病院で働く医師や看護師。また消防、警察も同様のことが言えます。これらは人としてのプライド、使命感が彼らを支えていたのではないかと考えられる訳です。
またこの頃は急性ストレス障害としての恐怖感、パニック障害、不眠、虚脱感等が生じ、生き残ってしまったという罪責感等が生じやすい時期でもあります。
集団生活というのはプライバシーの保持が困難であり、特に女性は大変なストレスとなります。遠方から「何か出来ることがしたい」と、ボランティアで支援に行くのにも、自己完結型といわれる、いわゆる住居・水・食べ物も全て自分でできる状況でないと支援ができない。返って邪魔になってしまうというケースも見受けられたようです。
亜急性期とは
仮設住宅の生活は、プライバシーが保持され、いくらか余裕が生まれてくる時期でもあります。いよいよ個人での生活が始まる訳で、精神的な余裕が生まれ、情緒などの喜怒哀楽が戻り浮き出てきます。また新しい共同体が生まれ、対人関係・お付き合いが生じてきます。それがストレスとなり閉じこもりやお酒への依存に走る人も出てきます。環境の変化への対応として、近所間のトラブル・抑うつ・不眠などの症状。また認知症の方は症状が悪化しやすいので注意が必要です。情緒を持てるようになると感情の起伏が強くなって、PTSDの症状が顕在化してくるケースもあります。まだ長期滞在しての支援は物理的に無理な状態で、私も6月に見舞いに行きたいと思い、宿を探しましたが、泊まる場所が見つからなかった。ようやく9月に宿がとれ、遠野に2泊し大槌へと通いました。
慢性期とは
私が大槌へと行ったのはちょうどこの時期でした。復興は徐々に進んできているように見えましたが、多くの方が仮設住宅で生活しておられました。
現在3年にも及ぶ仮設住宅での生活で、心身ともに限界に来ている状況が見受けられます。また、仮設の部屋は狭いです。防音もありません。隣の部屋のいびきが聞こえたりもします。どうしても動かずにじっとしている時間が長くなり、運動器症候群や、食べる事でストレスを発散しようとしてしまい、糖尿病等の身体的疾患から不定愁訴・認知症・抑うつ等の精神的疾患が増加しております。また自殺の問題。復興の遅れによる悲観的な言葉も聞かれ、プライベートな空間が保てない事による、家庭内の不和。離婚・別居の問題。自分で家を建てて仮設から出られる人。相変わらず仮設に取り残されている人との格差の出現。未だに400名以上の行方不明者があり、喪失感・孤独感・罪責感・後悔の念などが持続しており、現実的ストレスも大きくなっています。引き続き継続的な支援、継続的心のケアが必要だと感じております。
寺院・宗教家の活躍
震災直後、避難場所、避難所としての働きをお寺が担っていました。ちなみに避難場所とは、災害時逃げて集まる場所。避難所はその後行くところが無くて生活を送る場所。実際その両方を兼ねていた寺院もありました。また葬儀・供養・遺骨の管理など悲嘆者への対応も寺院がしていた。発見された「遺体」は体育館などに集められ、棺桶も間に合わない、火葬もすぐには行えないという状況が長く続き、内陸の方に運んで火葬が行われておりました。また宗門からは、NVN様より回向供養・復興祈願・唱題行脚・「法話とお茶の会」座談・傾聴・健康相談など頂きました。本当にありがとうございました。女性教師の会からも、釜石・大槌に何度も来て頂き、傾聴ボランティアなど大変心強く思っております。個人教師からの支援活動としまして、被災者にアンケートを取って、欲しいものを聞いて次回持ってくるという大変ユニークな方もおられました。未だに行方不明者が400名以上おられ、まだ葬儀も出せない人もいる状況では、遺された方への心のケア(グリーフケア)が必要となります。
グリーフケア
遺された遺族への心のケアのことをいいます。精神的過程を見ますと、死別による衝撃→抑うつ→時を経て徐々に回復していく。葬儀から49日を経て、時間の経過と共に徐々に回復していくものなのですが、未だに葬儀を出せていないで苦しんでおられる方もいらっしゃる中で、「助けられなかった」「どうして自分だけが生きているのか」といった自責の念に苦しんでおられる方に対し、グリーフケアが必要なのです。
「3.11をやっと思える涙かな」(岩手日報 H26・5・2)これは3年経って桜が咲いたことを、ようやく綺麗だな。咲いているんだな。と思える様になった。今まで悲しくても泣けなかったのに、ようやく涙を出して泣ける様になった。こうした方に対して、とにかく黙って聞いて差し上げるだけでも良いので、素直な気持ちを表明できる機会や場所をつくって、傾聴して差し上げること。また同じ経験をした人同士が集まり、お互いに気持ちを話し合うことで、想いをぶつけ合うことでそれが少しずつ治療に繋がっていくという方法もあります。気持ちは正常な反応であることへの気付きを促してくれます。気持ちを出すことは正常なことなんです。当たり前なんです。そんな「気付き」を促して差し上げることが必要だと思います。
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スピリチュアル・ペイン&ケア
因果関係がはっきり判らず、何の前触れもなく突然やってくる「人生の不条理」に直面し、自分の苦難の存在に関する問いや、子供が死んでどうして自分だけが生き残っているのか。といった生きる意味に対する苦痛。
単なる精神的痛みというより、それをこえた「魂の叫び」孤独感、喪失感や、助けられなかった事に対する虚脱感。そうした方に対して、生き甲斐を見出し、人生の価値を見出す様に導くスピリチュアル・ケアができるのは、宗教家、あるいは宗教的素養のある人ではないか。まさに今、我々僧侶の出番ではないだろうか。
旅の人と呼ばれ
ここからは私自身のことになりますが、移住して1年目に、ある青森の方が私の事を聞いて尋ねて来られました。その方はお寺の奥様でいらして「40年以上お寺にいるけれど、私はまだ旅の人なんです。」と言うので「旅の人とは何ですか?」と尋ねると、お寺に、地域に溶け込もうと一生懸命やっているが、昔から住んでいる人からしてみたら、まだまだ旅の人だというのです。きっと私も旅の人なんだと思います。
大槌に来て最初の正月、書初めに自省の念を込めて書いたのが、法師品第十の三軌。「室」一切衆生中大慈悲心是「衣」柔和忍辱心是「座」一切法空是。とありますが、特に私が感銘を受けましたのが「衣」というおしえです。やはりすべてが面白い話ではないですから、当然腹の立つことも、嫌だな、と思うこともあります。そんな時こそ、この柔和忍辱の「衣」を着て対応するように心がけております。
それから大事にしておりますのが「喜」の心。復興住宅が当たり、ようやく笑顔が戻ってこられた方に「あー、良かったですね」と一緒に喜んで差しあげる。もうひとつ「捨」の心。何かをしてやっている。という気持ちを捨て、お手伝いをさせてもらっているんだ。という気持ちで行えるように心がけております。
それから毎朝のお勤めに引き続き「雨ニモ負ケズ」の朗読を行っております。「決して怒らず、いつも静かに笑っている」のところを特に強く読んでおります。私の応援歌でもあります。
それから町内の行事、お祭りの片付けやお茶配り。音楽会などのイベントには積極的に出て顔を売る様にしております。幅広い層の方に、僧侶であり、医師である面白い人がいるよ。と、まずは自分の存在を知って頂くことが、地域の方との第一歩だと考えております。
最後に、皆さんにお願いしたいこと
とにかく現地に足を運んで頂きたい。忘れないでいただきたい。そして死者への供養・傾聴ボランティアなど、出来る活動を継続的に続けて頂きたい。皆様方には末永いご支援の程、これからもよろしくお願い致します。
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質疑応答
Q.最初に長崎から大槌に移られるに際して奥様が賛成された、大きな内助の功があって二人三脚で活動されているかと思いますが、奥様のお話を伺えますでしょうか。
洋子夫人:
24年4月に大槌町に移り住んで、1〜2ヶ月は家事を。それから5ヶ月間、大槌町、仮設での生活を知る為に、社協スタッフと一緒にボランティアで「傾聴とお茶っこの会」に参加。どんな人が住んでいるのか、今どんな心情なのか、また震災の時の話を聴いていました。町の行事(太極拳、お習字)に参加。健診のお手伝いを行い、できるだけ地元の方達との交流をしています。
Q.長崎から岩手に来る時に、二つ返事で行く事になったのでしょうか。
洋子夫人:
震災の状況がメディアで紹介されて、何かしたいという方が多かったかと思います。親類が居たということもあって、何かボランティアでも駆けつけたい、しかし宿泊するところもない、町の状況も悲惨なものでした。震災6ヶ月後に現地を訪れて、「これは支援をしなければならない」という主人の強い想いに、私も負けないくらいの想いがあり、被災地に行く決心をしました。
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まとめに替えて
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前NVN世話人代表 柴田寛彦師
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NVNの会員の代表として働いて頂いているのだなという印象を受けました。話のなかで大事な事は三つあったかと思います。
・被災地のことを忘れない。
・忘れない気持ちを現地の人に届けるような活動をしなければならない。行って支援する、祈りを捧げる。
・私たちでなければ出来ない、スピリチュアル・ケアに対しての期待が大きい。
今後のNVNの活動に活かしたいと思います。ありがとうございました。
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以上
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