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NVNニュース 第15号(平成25年3月31日発行)
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第9回 心といのちの講座

「ペット(愛玩)からコンパニオン(伴侶)へ〜人間と動物の新たな関係」
立正大学社会福祉学部教授 溝口 元 先生

 平成24年11月26日(月)日蓮宗宗務院5階講堂に於いて、日蓮宗生命倫理研究会(日生研)主催、日蓮宗ビハーラ・ネットワーク(NVN)協賛による、第9回「心といのちの講座」が開催されました。
 今回は、立正大学社会福祉学部教授の溝(みぞ)口(ぐち)元(はじめ)先生を講師にお迎えして、「ペット(愛玩)からコンパニオン(伴侶)へ〜人間と動物の新たな関係」と題して講演して頂きました。

 以下、内容の概要を報告致します。

チラシ
帯帯帯

はじめに
 人間と動物との関係を考えながら、いのちというものについて現状の把握それから将来の展望を皆さま方と進めて行けたらいいなと思っております。

自己紹介
 1953年、長崎生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科で博士号を取りました。大学を終わって1983年に立正大学短期大学部に採用されました。清水海隆先生と同期で、来年で30年お世話になります。1996年に立正大学の短期大学が無くなった時に社会福祉学部に移って、2000年に大学院の併任教授になっています。
溝口元先生
 放送大学客員教授。精神障碍者と呼ばれている方々の作業療法というのがあるのですが、どういう作業をしていくことによって精神的な疾患の病状の安定とか社会復帰につながるか、作業療法士の研究のアドバイスをしています。
 東京大学非常勤講師。現在、理科系の大学では、環境倫理、情報倫理、生命倫理のどれか一科目を学ぶということが推奨されていて、東京大学は3科目とも開講されていますが、そのうちの生命倫理を担当しています。
 社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士という国家資格は3つとももっています。
 活躍しているのは社会福祉士として。豊島区の知的障碍のある方々の余暇活動のサポートをしています。レザークラフトの作業や、吹き矢をして一緒に遊んだり、知的障碍のある方も社会参加をする時に楽しみがあると、うれしそうだ、面白そうだ、そんなものを特別支援学校を定年退職された先生方とやっています。
 精神保健福祉士としては、夫が鬱病・躁鬱病を患っている妻達の会という自助グループのサポートをしています。

犬と人間
 人間と犬ということを考えてみると、遺跡等から出てくるのを推定して3万年くらい前から犬と人間との関わりがあっただろう、1万5千年くらい前から間違い無く関係があったであろうと言われています。
 私達は犬を狩猟犬や番犬のように人間生活に利用しているものと理解するわけで、使っているうちに仲良くなってきて飼い慣らしていって品種改良が行われてペット化されたという理解をなされることが多いのですが、そうではなくて、何かに使うということではなくて、人間の社会構造と犬の社会構造はリーダーがいて纏めていく、というように似ていて、犬と人間の関わっているのは氷河期に入ってきてお互いに協力し合った方が良いような状況が生まれて、まずはペットとして人間の近くに居る存在となって、そこから関わりが出来て、狩猟犬や番犬の家畜化になったという方が実態に叶っていると考えている人が多いです。
 何か目的があって犬を飼い始めたのでは無くて、飼っているうちに連れて行くようになったというのが、T万5千年前くらいと言われています。
 現在、犬がどういう状況に置かれているかというと、人間に対して貢献をしています。例えばWorkingDogと言われる働く犬たち、探索犬、警察犬、検疫犬、麻薬犬、軍用犬などがいます。2002年に「身体障害者補助犬法」という法律が出来て、盲導犬、聴導犬、介助犬のサービスドッグが明記されて、これらはホテルとかに入ることを拒んでは行けないとなっています。犬と人間は非常に身近な存在として法律的にも位置づけられています。

急激な犬の人間化
 犬の生活自体が人間に近くなっています。犬のカットとかシャンプーとかリンスがあります。人間と同等に、同等以上に。犬も生活習慣病(がん、糖尿病、高血圧、腎不全、尿道結石、肥満等)が見られます。犬の年齢十数年が人間の60年と言われ、寿命10年〜20年で、20年に近くなってきています。人間の管理によって動物たちの寿命が延びるということが知られています。長寿化していくことによって加齢が進んでいく、老化が進んでいきますので、機能低下や認知症になったり、見取りの問題も出てきます。人間の状況と同じような状況が見られるようになっています。

心が癒やされるメカニズムの仮説
 犬の別の形での利用ということも考えられるようになってきて、その一つが「動物介在療法」とかいうものです。癒やしというものを主体として犬が利用される事が多いです。動物介在療法で利用されるのは圧倒的に犬が多く、犬以外だと、馬(乗馬)、イルカとかがいます。場合によっては猫もいます。
本『人はなぜ動物に癒やされるのか』
 精神科の病院で気持ちが落ち着かない人に、薬物を投与しても何の効果も見られなかった時に、犬と兎がいて、それを抱く事によって気分が落ち着いて表情が変わってきたということがあって、いろいろ動物を試してみたところ犬が一番よろしいと。犬と癒やしの関係が着実に社会に浸透してきている状況があるかと思います。
 何故、犬が癒やされるのか。犬を抱く事によって37度近辺の温もりが良い、さわった感じが良い。普通動物は檻が必要になってくるけれども私達の周りの動物で檻を必要としない動物が犬と猫です。檻が無くて、抱く事が出来て、温もりを感じて良い感じになる、それが癒やされるのではないかと言われてきました。
 また、現在のように、都市部に居ると自然との触れ合いが乏しくなっています。自然の一つとして動物、自然の触れ合いとしての代償として癒やされるのではないかと言われています。
 更には、少子化によって子どもが減ってきている。子どもは可愛い。成長していく姿というのは人間力の養成でもあるし、妊娠、出産、育児を体験することが人間として成長することにつながってくるし、人間力の形成にもなるし、一人前という言われ方もします。子どもの数が減るということは愛する対象の数が減るということで、子どもの代わりになりうるものとして、ペット、コンパニオン、動物がいるという言い方がされています。
 仕組みをよく調べられているのはイルカセラピーで、中国の映画でもイルカと知的障碍者の関わりの映画がありましたが、イルカは自閉症、多動症の方に効果があると言われています。イルカが発している音波は、母胎の中で聞いていた母親の生活行動の中から出てくる音と同じ周波数を持っていると。心音は人間にとって心が落ち着くと言われています。量的よりも質的に効果があったと言われています。

犬の役割
本『人と動物のかかわり』
 犬が現在どういう役割をしているかを考えると、伴侶(コンパニオン)、守護者(プロテクター)、人間関係の橋渡し(ブリッジ)、家族の一員(ファミリーメンバー)、重要な他者(シグニフィカント・アザー)というのを求めている、またそういう働きがあると纏められる、と考えられています。
 人間と動物の絆・関わりに関しても、『ヒューマン・アニマル・ボンド』、『ひとと動物のかかわり』という本もあって、こういうのがあってもいいというよりも、もっと重要な働きをしている、もうちょっと掘り下げてみようという機運が高まっている現状があります。
 そのような状況もあって、私も関心があって、仏教学部50周年の時に、『動物介在療法』ということを書かせて頂きました。
 ここでの私のスタンスはどういうことであったかというと、一つは西洋医学に対する見直しということです。生命倫理のお話の中核に入っていくかなと思っているんですけれども。

西洋医学のスタンス
 西洋医学は基本的に病気の原因は何処に在ると考えるかというと、ギリシャ・ローマ時代、ヒポクラテスという医者がいましたが、体液病理説という考え方。我々の体の中には、体液、中でも血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という4種類の体液が、うまい具合に流れている時が健康であって、体液の流れが悪くなると病気になる、という体液病理説という考え方があった。それから少し時代が下ってアレキサンドリアくらいになってくると、個体病理説。つまり、体の特定の部分に問題があったら特定の部分に問題がある。痛みを訴えるその場所に問題があるという、局所病理論なんです。
 東洋医学、中医、漢方では、必ずしも痛い場所に問題があるとは限らないわけです。何か繋がっているものがあって、気(生命のエネルギーの源)の流れがあって、気がうまく流れている時が健康なんです。
 実際に私達は「気」という言葉を非常に良く日常的に使います。「お元気ですか?」「本気」「短気」「気持ちが悪い」「気分が悪い」とか、気の解り方とか気の持ちようとか、全身のつながりを問題にします。
 恐らくは、どちらも、それだけでは無理があるであろうと。つまり、痛いところだけが問題になるんだというような西洋的な捉え方でも、恐らく我々が疾病になった時に捉えきれないだろうし、漢方的な全身的な気の流れとかだけでも無理だろうということがありますが、特徴としては、こういうことが考えられます。
 16世紀以降の西洋近代科学の捉え方として出てくるのが、人間の見方では人間機械論です。人間はパーツ(部品)の組み合わせで出来ているものであると考えます。身体のある部品の具合が悪くなると新しい部品に変えれば良い、つまり臓器移植が何故成り立ちうるかというのは、身体観が部品の集まりだから、部品に不具合が出れば取り替えれば良いという考え方。自然の場合は機械論敵自然観。自然は全体が機械の様である。マシン・アナロジーという言い方をすると、時計をイメージして、歯車があって、バネがあって、力が伝わって、というふうに、自然自体が、雨が降って川に流れて海に行って蒸発して雲が出来てまた雨が降って、という自然の循環と考える、西洋的な考え方です。
 東洋的にはなじみがない。臓器移植に対して何となくしっくりこないというのは、我々がうまく言語化できなくても染み込んでいるアジア的、東洋的な発想が一つの原因かなという気がします。
 もう一つ、西洋的科学思想としては、要素還元主義ですね。分ければ分かるという考え方ですね。何か知ろうという時に、分ければ分かる、これ以上分けることが出来なくなるまで、どんどんどんどん分けていく。そうすると、自然界では原子。原子というのは当に英語で言うとアトム。アトムの語源は元々はギリシャ語。ア・トム。つまり、アというのは「出来ない」ということ、トムというのは「分ける」ということ。つまり、これ以上分けられないというのが原子なんです。
 実際に近代医学もしばしば1543年にベルギーのベサリウスが『ファブリカ』という人体の解剖という本を書いてそこから近代医学が始まるという言い方をしますが、人間の体も、解剖という分ければ分かるということです。分ければ分かるということはどういうことかというと、要素還元主義と局所病理論をつなげていけば良いわけです。不調を訴えたらその部分に問題がある。当初は臓器。我々の体も細胞と呼ばれる一つの小さな小部屋で成り立っている。人間の体は60兆個の細胞から成り立っている。人間の体が細胞から出来ているのであれば、病気というのは細胞が変調を来すことによって病気になるという発想が出てきて、これが1858年、ドイツのルドルフ・ウィルヒョウの言った細胞病理学説。細胞病理説で彼の本の一番最初にがん細胞が出てくるのが当に西洋的な要素還元主義と局所病理論がつながっているというのがわかる。20世紀に入ってくると、細胞の中でも重要なのは、細胞の真ん中にある核という部分で、遺伝子が入っている。現在の分子医学と呼ばれている領域だと、病気、疾病というのは遺伝子が正常に働かない、遺伝子の変調、不調。究極的に治療するためには、正常に働かない遺伝子が疾病を引き起こしているのだから、正常に働く遺伝子に交換すればよい、という遺伝子治療の発想が出てくる。
 現代の生命倫理、医療問題なんかでしばしば問題になる遺伝子治療をやっていいかどうかとか、臓器移植と脳死の関係とかを考える時に、近代科学思想として人間機械論とか要素還元主義が根底にあるから、こういう発想が出てくるんですね。
 今日の医療現場を見てみると、高度医療が発達して、とにかく延命治療というのを進める。その時に少し前まではインフォームド・コンセントで、説明と同意。医療者側、医療従事者の説明を患者さん本人あるいは家族が聞いて納得して医師側、医療従事者側の治療方針に従っていくというのが根本になってくるのですが、そうではなくて、患者本位の医療であれば、患者あるいは家族に選択権がなければならない。選択権があるということは、逆に医療従事者がいくつかの治療方針を説明してその中から選んで頂くということ、インフォームド・チョイスが重要ということ。いろいろなチョイスが出てきますから、余裕が有る方、お金がある人は良い医療を受けられるけれども、そうでない人は…という問題が起こってきてしまう。更には現在ではもっと進んできて、シェアード・ディシジョン・メイキング、つまり、患者さん本人と家族と医療従事者側で、ディシジョン・メイキング、これからどうしていくかを、シェア、お互いに分け合いながら考えていこうという、SDM(shared decision making)というのが、インフォームド・コンセントの現在形とも言われます。
 第一選択としては治療を続けて行くということになると、良い治療を受けるためには、高医療高負担の問題が出てくる。医療従事者は基本的には延命ということが職業倫理であるし、死ぬということは医師にとっては非常に残念なこと。部外者が医師の振るまいを見ている時に、回復可能性がある場合は本当に良くやって頂いているが、もう無理だとなると医療従事者がそっけなくなってくる、冷たくなってくる。病院で亡くなったとき、手際よくストレッチャーに乗っけられて霊安室に持って行かれてしまうと、我々は情緒があるので、もう少し何とかという感じになってくる。元々医療従事者は、その人なりの生活の質、生命の質よりも、まず治療で考えるというふうに一般的に言われます。
 こうやって見ていくと、どうもしっくり行かないところがある。局所病理論、遺伝子治療にすんなりつながる感じもしないし、かといって、全身性で気の流れを良くしたら良いという感じもしないし、どんどんと何はともあれ延命治療を進めて欲しいとも思わない。かといって医療従事者は絶対に必要だし、頼りになる人だし、でもQOLは重視して欲しいなという空間があります。

心理療法・精神免疫療法
 補間する何かがないだろうか、という時に、一つとして出てくるのが心理療法です。
 つまり、高医療高負担。高負担しなくて、何か自分でしっくり行くようなもの、かつこれまでの医療で見落とされたものが無いか。過剰な期待をすることは絶対いけないことなんですけれども、まぁ無いよりは良いかもしれない以上に期待されるものが、この心理療法・精神免疫療法と言われるものなんです。
 音楽療法、芳香療法、色彩療法、動物療法、園芸療法、絵画(芸術)療法、箱庭療法等々です。それぞれ資格があったりします。音楽療法士、アロマテラピスト。カラーテラピーも検定試験がありますし、園芸療法は東京農業大学が扱っています。
 音楽療法というのは何かというと、2つタイプがあります。音を聞くというタイプと、音を出すというタイプと。癒やしということを考えると、音というのはとっても大事で、何の音が良いかというと自然音なんです。例えば、小川のせせらぎ、野鳥の鳴き声、海の朝の潮の満ち引きの音とか。打楽器で音を出す。叩いて音が出るというのが良い。高齢者の方がボーリングでピンが倒れるとカーンという音が出るのが良いと言います。
 アロマテラピー。結構良い香り。言われているほど効果があるとは思えないが、疲労回復、リフレッシュメント。色彩療法はホスピスでカーテンの色とかを自分の好きな色にするところから始まった。動物の温もりの動物療法。動物が嫌いな人もいます。土をいじって、種を蒔いて、芽が出て、成長していく。植物の成長を見ていくっていうのは私達は洗われる部分があるし、自然の偉大さはすごいなと思ったりもします。
 共通していることは、無表情だった当事者・患者さんが明るさを回復したとか、会話がなかった者同士が会話を交わしたとか、目的意識や活気が生まれるようになったとか、心理療法の共通の効果として言われます。ただ、厳密に効果があったと指摘するまでには行きません。やらなかった時よりは明らかに変わってきているということは感じられるということです。
 もう一つは、精神免疫療法と呼ばれるもので、信仰心の問題なんです。非常に面白いと思ったのはアメリカ医師会の雑誌に本当に出ていたものなんですけれども、日曜日に教会に行っている方と行っていない方との集団を比べた場合、教会に行っている方の方が自死、がん、心臓疾患になる割合が低かったということで、信仰とか宗教的雰囲気を一定度コンスタントに体験する方、つまり、信仰が予防につながっていくだろうということとか、祈りをすることによって医療的な治療ではなくて自然治癒していく可能性が考えられるということです。
 若い連中は、病院に行かなくても薬を飲まなくても一日位おとなしくしていれば治る。高齢者の方は、風邪にかかったらなかなか治らない。我々の体の中には自然治癒力、免疫力、今風の言葉で言うと生体防御力。若い人たちは、自分の身体の中に自分の身体に合った薬の効果がある物質を作り出している。オーダーメイドの薬を造り出して自分が作った薬で自分を治している、という生体防御力の考え方です。
 自然治癒と呼んでいるもの、寝ている間に薬を自分で作っている。祈りをすると、信仰心が篤い人は自分にあった薬を造りやすくなる、活性が良くなることと関係があるのではないだろうかという指摘がなされています。まだ全然立証されていないけれども。
 動物介在療法もこれと関係があるのかなという状況にあります。

生命倫理のスタンス
 生命倫理のスタンスからいうと4つあります。宗教・哲学的側面からの議論。医学・生命科学的側面からの議論。法学・社会科学的側面からの議論。歴史・文化的側面からの議論。ある面を見逃して議論をするよりも、4つの面からの研究が豊かな疑論に繋がるであろうということです。
 日常生活は、生まれ、育ち、老いて、この世を去る、人生のサイクルをたどっていきますが、現代では医療機関との関わりを絶つことは出来ない。生まれてくるのが病院です。40年前までは病院で生まれることは異常でした。地域のイベントとしての出産がありました。亡くなるのも同じです。地域の出来事としての看取りでした。生まれるのは妊娠段階から産婦人科にかかってアドバイスを受けながら、生まれることが医療行為だし、亡くなることもそうです。社会学では、生の医療化、死の医療化と言います。人生のライフステージ全てに於いて医療機関との関わりが出てくる。それとどのようにおつきあいしていくのか。いのち自体を議論することが、生命倫理であると捉えられています。
 動物が関わる事例として、動物実験、盲導犬、ペットロス、安楽死(殺処分)、動物保護の問題があります。盲導犬は盲導犬として訓練されているんですが、この犬たちがそれを望んでいるのか。犬に対しては非常に辛いことをさせているのではないのか。盲導犬に対する批判は強いものがあります。

ペットロスの事例
 私達が調査をしたペットロスの事例を紹介します。

 25歳、男性、イヌの場合
 
本『ペットロスから立ち直るとき』本『ペットの死その時あなたは』
Q.亡くなった場所
⇒家で、眠るように亡くなった。
Q.家族内での役割
⇒かわいい弟みたいなもの。
Q.葬儀は行ったか
⇒ペット葬儀で、ちゃんとしたのをやった。
Q.亡くなったことを知った瞬間、どう感じたか
⇒亡骸を見ても、死んでるんじゃなくて寝ていだけじゃないかと思った。添寝をして10分位何もしないで過ごしたら、なんだか納得した。
Q.死に対して、何か得るものや学んだものは
⇒添寝して体の冷たさを感じた。あぁ死んじゃうってこういうことなんだな。でも、反対に生きているって暖かいことなんだって。
Q.現在、他のペットと生活していますか
⇒一度ペットを飼ってしまうと無しでは生きていけないですよ。

 脳死の方で生命装置に繋がれている人は温かいわけです。脳死の場合は温かくても死んだと判定されるということがあります。

 28歳、男性、ネコの場合
  Q.家族内での役割
⇒心の不安定だった私にとってはまさにコンパニオンアニマルだったんだ。大切な存在です。
Q.亡くなったことを知った瞬間、どう感じたか
⇒できることならば想像もしたくない。ショック。
Q.死に対して、何か得るものや学んだことは
⇒いのちの大切さ、代わりの利かないかけがいのなさ。

 一度限りの「いのち」なので代替が効かないから「いのち」というものを考える様になる。代替が出来るようにしようというのが、クローン技術。クローン犬、クローン猫は数百万円で作り出すことが可能です。
 iPS細胞、ES細胞の再生医療の問題になると、これからの技術を念頭においた生命倫理の問題になってくるかと思います。代わりが無いというのが我々の感情かなと思います。

ペットの死後の追悼
 亡くなった後どうなのかというと、お墓があったり、納骨があったり。墓碑に何を書いてあるかというと、「ありがとう」「感謝」ということが出てくる。今では動物園でも慰霊祭をやっているということです。上野動物園では一時期やっていない時があって、それは担当者がキリスト教だったからです。
 ペットの死後の立ち直りの手段として、自宅の庭にペットの遺骨を埋めてその上に植樹をするとか、ペットについての書き残しをするとか、当事者会、同じ体験をした人たちの集まりが為されているわけです。

犬の安楽死(殺処分)
 一方で生命倫理の問題になってくると、犬を最期の段階でどうしているか。障碍された場合や怪我で飼い主が対応出来なくなったら、殺処分、安楽死を頼むとか。犬を安楽死させた場合、飼い主はどうなったかというと、罪悪感を感じる、喪失感を感じる、意気消沈する、食欲減退する、ということを言う。だったらどうかということになってきますが。

日本と欧米の苦死観の違い
 日本と欧米の苦しみとか死についてどういう違いがあるかと考えてみますと、日本の場合は殺すということに対して非常に抵抗がある。生きていることが良いことである、苦しみというのは生きている範囲だと。欧米の方々は、苦しむということ自体が罪なんであって、死ぬことは良いことなんだ。死ぬことによって天国に行けるから。欧米で安楽死が認められるのは、これがあるからだと言われています。
 南極に置き去りにされた犬、太郎次郎の話の場合、日本では生き残ったことは快挙である。欧米ではなんてひどいことをするんだ。置き去りよりも安楽死させるべきだった、となります。
 日本と欧米で決定的に違う。生命倫理の議論をする時にも、この状態を確認してから議論をしなければ議論自体にならないことがあります。

日本人の動物供養
 供養ですが、食べたとか殺したので霊を弔うというパターンが多くて、供養塔を建てる場合と建てない場合があって、江戸時代になると、食べなくても供養する例が出てきて、対象となるのは、馬、犬、猿、鯨、海亀などの人間に貢献するような動物たちです。
 犬の供養は、安産祈願と関係させる所もあったり、ペット供養の根底に動物への感謝の気持ちだと。

ガンジーの言葉
 「人間と感覚を持つ他の生き物とを分け隔てる点はほとんどない。我々生あるものはみな喜びを感じ、みな元気で自由に生きることを心から望む。そして皆ともにこの地球の上で生きていくのだ。」この言葉を一つの指針として考えていきたいなということです。

会場
 
まとめ:新たな動物‐人間系の模索
 ペットへの愛情は人間の場合と同等以上、そこからペットを介して人間同士の絆の回復あるいは構築が出来るし、回復・構築に対してペットが利用出来るということが言われます。普通に考えていった場合、変なんですよね。愛情を注ぐことが家族の云々と言っても、絶対的な意味でペットと人間は対等ではありません。明らかに主従関係があります。人間がペットを飼っているわけですから。明らかに対等ではないし、ペットは家族という言い方がしばしばされますが、ペットは家族ではありません。犬と猫は檻がなくても人間と暮らせる動物なんですが、でも家族じゃないんです。一般的にペットというのは,ペットショップで買ってくる。ペットショップで買ってきて家族になるのか。言葉上、レトリック上では言われますが、決して家族ではありません。こう捕らえたうえで、新しい考え方が必要かなと思います。
 その一つの考え方が、一体化システムです。最初のタイトルで言いましたように、愛玩っていうものから伴侶というものを一体化していくというものを考えていく必要があるのかなと思います。
 類似になるのが、現代社会に於ける人間と機械の関係がそうです。機械は思った通りに動くと気持ちが良い。電動車いすの利用者の方は、電動車いすと自分の身体が一体化していて、生きたいところに行ける。人間の人間たる所以は、自立して自分で生きたいところに移動できる、というのが、人間の自立の一歩、社会参加の一歩なんです。日本の場合、後ろから車いすを押す介助型車いすが多いんですが、アメリカではまず病院以外で車いすを押すことを見ることはありません。社会に出た場合には電動車いすで自分で行きたいところに動いていく。福祉車両。良く出てくるのは、乙武さん。車で自分で動いていく。彼自身を見ていても、人の手を借りることなく動いていく。イキイキとしているし、社会参加しています。
 ロボットの問題。高齢者が増えてきて介護者が居なくなった場合、可能性としては介護ロボットが考えられていて、どこまでだったら許容されるか。しばしばロボットの批判は、温もりが無いとか、冷たいとか、機械では気持ちが悪いとか、ということになってきますが、動物でいったら、アイボ、ヒューマノイド、かなり人間の動きに忠実に模倣できるロボットが出来た場合に人間の労働力に代わる。あるいは一人暮らしの高齢者の方の寂しさとか、身の回りのことをどうするのか。人手が足らない場合は、介護ロボットというのが考えられていて、想定としては、高齢者の一人暮らしの方とその生活を支える介護ロボットの問題というのは当然出てくるわけです。
 というわけで、マンマシンシステムと言いますが、人間機械系ではこういう問題が現実に起こっていて、何とか共存しようとしています。
 同じ様なことで、もう一つの段階として、我々の生活を守っていくためには、人間と動物が同じような形で一体化するようなものになっていって、恐らくこれからの人間社会を考えていった場合に、人間機械系と人間動物系とセットになると、我々の生活を支えていく重要な、考え方としては思想になりますし、実際面としても機能として、必要になっていくのかなという感じがしています。
(報告・文責: NVN事務局員 成田)

足跡足跡足跡
  編集後記 
NVNニュース第15号をお届け致します。何とか24年度2号目が出せました。
NVNウェブサイト(http://www.nvn.cc/)に資料を掲載しております。ご活用下さい。
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