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NVNニュース 第23号(平成31年3月21日発行)
日蓮宗ビハーラ・ネットワーク
Nichiren-syu Vihara Network
NVN事務局 香川県丸亀市南条町9番地1 宗泉寺内
〒763-0046 Tel 070-5355-9856 Fax 020-4664-6973
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平成30年5月21日(月)、日蓮宗宗務院に於いてNVN(日蓮宗ビハーラ・ネットワーク)平成30年度総会がNVN会員21名の参加により開催されました。
不軽品二十四字偈、お題目三唱の後、日蓮宗全国社会教化事業協会連合会(全社連)の山本貫恭会
長よりご挨拶を頂き、全社連より助成金5万円と表賀3万円を頂きました。山本会長はご挨拶で「社会に於かれましてもNVNのお力が必要になってくると思います。安穏な社会、人づくりのため、宗門運動の先頭に立ってご活躍頂ければ思います」と話されました。
続いて今田忠彰NVN世話人代表より挨拶があり、「制度が使いにくくなってきます。扶助を貰うべき人が貰っていなかったりします。ビジネスとは違って無償の活動として、社会資源の活動として活動しているビハーラの人々は貴重な方々であると思います。特に「心の問題」「魂の問題」を扱うビハーラの活動では僧侶でないと手を差し伸べられないことが沢山あります。僧侶として寺院として手を差し伸べられるのがビハーラ活動だと思います。世の中の半分は女性なので、女性が活躍するのがビハーラだと思います。「実践社会活動研修会」の方々の準備会でビハーラに取り組んでいきたいと平成30年度NVN総会のことですので喜んでお手伝いさせて頂きます。第2世代(初期のビハーラ講習会を受講した人たち)、第3世代へ引き継いでいく役割があるかと思います。宗門の中でビハーラ活動が取り上げられるようであればお手伝いしたい。ビハーラ活動をどのように弘めて行くか、ご協力の程お願い致します」と話されました。
その後、NVN世話人の山口裕光師(東京都妙経寺住職)を議長に議事が進行しました。その中で、日蓮宗新聞毎月20日号にNVN会員が順番で執筆している「あなたのそばに」について、執筆者の一人である吉田尚英上人より、「他にお書き頂ける方がいましたら交替いただければと思います」との発言があり、今田代表より、「初期のメンバーから村瀬正光師が抜けられ、三井妙真師の代わりに松森孝雄師が入っております。是非続けて頂ければと思います。5人になっても6人になっても構いませんので執筆者を増やしていければと思います」と答えられました。その後、平成29年度活動報告・決算報告・会計監査報告、平成30年度活動計画(案)・予算(案)が承認されました。
また、会計監査改選の時期にあたっておりましたが、引き続き塚本妙風師と齋藤澄泉師にお願いしたいということで、承認を受けました。
日蓮宗新聞「あなたのそばに」の執筆者の件は、世話人による声かけにより、日高隆雄世話人と太田喜久子会員に快く引き受けて頂き、今田忠彰師、林妙和師、吉田尚英師、松森孝雄師と共に6人で執筆して頂くこととなりました。よろしくお願い致します。
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総会に引き続き、総会記念報告会として、NVN世話人柴田寛彦師による「日蓮宗ビハーラ・ネットワーク(NVN)に於ける被災地支援活動〜ボサツ行としてのビハーラ活動・PTGを促すビハーラ活動〜」、東邦大学健康科学部美ノ谷新子先生・米澤純子先生による「同居近親者死別による独居高齢者の生活と健康の変化」について報告して頂きました。
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「日蓮宗ビハーラ・ネットワーク(NVN)に於ける被災地支援活動
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〜ボサツ行としてのビハーラ活動・PTGを促すビハーラ活動〜」
| NVN世話人 柴田寛彦師
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東日本大震災後にNVNが行ってきた被災地支援活動について、(1)被災地支援活動が法華菩薩道の実践になっていたか、(2)被災地支援活動はPTGを促していたかを考察されました。
ボサツ行としてのビハーラ活動は
・地涌の菩薩
・六波羅蜜
・四無量(慈・悲・喜・捨)
・四摂法(布施摂・愛語摂・利生摂・同事摂)
・安楽行(身・口・意・誓願)
・但行礼拝
・三軌(室・衣・座)
であり、PTG(Post Traumatic Grouth、心的外傷後成長)を促していたかについて考えられました。
支援物資・支援等の活動を行ってきたし、僧侶としての活動を行ってきた。これはPTGを促す活動に繋がっていたのではないかと結論づけられました。
また、ビハーラ活動の二つの方向性について、
1.遡及的支援(Retrospective support)
大切なものを失った喪失感への対応
2.未来志向的支援(Perspective support)
未来への希望を見出すための支援〜皆ともに仏になるための生き方を求める〜
と話されました。
詳しい報告内容につきましては、『宗報』平成30年8月号の全国社会事業協会連合会の枠に寄稿しておりますので、御覧になって頂ければと思います。
質疑応答では、この後の発表者である美ノ谷新子先生から、「4種の苦痛(肉体的、精神的、社会的、霊的)のうち、精神的苦痛と霊的苦痛との違いをどのように考えられているのか?」という質問があり、柴田師は「精神的なものは脳の機能に還元して理解出来るものが大部分で、霊的部分としては脳の機能に還元して理解出来ない」と答えられました。
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「同居近親者死別による独居高齢者の生活と健康の変化」
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東邦大学健康科学部 美ノ谷新子先生
米澤純子先生
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この報告に先立たれて行われた研究の背景には、
| 美ノ谷先生 |
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一般的に配偶者死別は最も強いストレス体験
| @ | 遺族の独居高齢化の実体は不明である
| A | 死別後の早い時期において生活や健康にどのような影響をうけているか判明されていない
| B | 近い将来には配偶者死別による独居高齢者の急増が懸念されている
| 介護予防、疾病の重篤化、自殺、孤独死の予防の点からも実態把握は喫緊の課題である。
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ということがあり、その目的として下記のように、
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同居近親者死別による独居高齢者の生活と健康状態の変化を知り、近親者の喪失による独居高齢者へのダメージを軽減する方策を見出すこと
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| 米澤先生 |
で、平成24年4月〜平成27年3月に実施されました。
その調査に於いてはNVNが協力させて頂いたという経緯もあり、今回美ノ谷先生と米澤先生に報告して頂きました。
結論としては、量的結果からの考察として、
・一次調査(質問紙調査)では、寺院が死別後早期に遺族と接点をもち、死後の宗教行事のみならず遺族の相談者として存在し、遺族の身近なセーフキーパーの役割を果たしていると考えられた。
・二次(量的)調査では、死別後独居高齢者は6ヵ月後よりも1年が経過した頃から生活や健康状態の値の低下を認めた。死別後の多忙さの後に喪失感が強まるのではないかと考えられた。
と、纏められました。
報告後、地域包括ケアシステムの考え方を示され、「病院で亡くなる方が少なくなり、自宅で亡くなる方が多くなる。医療関係者が自宅で亡くなる方を支える。ボランティア・NPOなど心を支える人も必要になる。宗教者は、魂の救い、魂に寄り添う、魂のところを支えてくれるという認識があるのではないか。安心して生から死へと続いて見守ってくれる人と思われているのではないか」と話されました。
また、「地域包括ケアシステムの考え方は、・どのような健康状態でも・生活まるごと・継続的に・それぞれが出来る責任を果たしながら、自助、互助、共助、公助によって、住み慣れた地域で自分らしい暮らしを現することである」と話されました。
質疑応答では、活発な意見がやり取りされました。小林貫誠師は「先生の想いは我々に何か求めるものもあるのかなと察知させて頂きました。家族を亡くされた方の想い、心のケアをするのが僧侶の立場。亡くなった後、何故一週間毎に行くのか、家族のケアの為。それは表沙汰になっていないけれど、それを想いながら日々やっている」と述べられ、林妙和師は「亡くなって一年というのは色々な物を受け容れて行かなければならない時期。何年経ってもいろいろなことを想うのが人。大切な人の事を想うのは、時間的に様々であるかな。半年一年をフォローしていくのが大切かな。寄り添っていくというのは時間的なことを要するのかな」と話されました。それに対し美ノ谷先生は「1年までしか調査していないので、その後はわからないが、1年は周りも放っておかないけれど、3年、7年経
つと当たり前と忘れられるのではないか。その時にこそ深刻な問題が出てくるのではないか。『忘れない』ことが大切、『忘れない』存在でなければならない。誰かが居ると見つけられるが、居ないと見つけられない」と応えられました。
最後にコーディネータを務められた柴田寛彦師が「私たち僧侶が関わる部分が明らかになってきたかなと思います。地域包括の考え方、その中に僧侶が民間の有力な資源として関わっていけるのではないかという話しを頂き、私たちの目的が明確になっていると思いました。3年、7年以降どうするのか、私たちは継続的に関わって行かなければならない」と纏められました。
| (以上文責:成田)
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平成30年11月14日(水)日蓮宗宗務院に於いて日蓮宗生命倫理研究会(日生研、柴田寛彦代表)主催の平成30年度第15回「心といのちの講座」が開催されました。
「心といのちの講座」は平成16年より日生研主催、NVN協賛により毎年開催されているもので、今回が15回目となりました。今回は、東北大学医学部臨床教授・医療法人東北医療福祉会理事長の藤井昌彦先生を講師にお迎えし「認知症は怖くない!認知症情動療法のすすめ」と題して講演して頂きました。日生研の講演録より、講演要旨を掲載致します。
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「認知症は怖くない! 認知症情動療法のすすめ」
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医療法人東北医療福祉会理事長
東北大学医学部臨床教授 藤井昌彦先生
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自己紹介
秋田県能代市出身。弘前大学医学部、同大学院卒業後、東北大学大学院研究生を経て2006年より東北大学医学部臨床教授を勤めています。また山形厚生病院理事長、仙台富沢病院院長、同統括理事長を併任。このどちらの病院も認知症の治療病棟を有する、いわゆる認知症の専門病院です。そこで認知症の患者さんを診させていただく中で、色々と学ばさせていただいたことを今日まとめてお話させていただきたいと思います。
認知症とは
認知症の定義は「一度獲得された高次脳機能が病的に低下」し、「かつ、日常生活に著しく支障をきたした状態」とされます。疾患は病的な状況によって規定されますが、認知症はその他に社会的な要因が付加されております。この定義からいくと、どんなにその人が高次脳機能が低下していても、日常生活に問題がなければ認知症ではないということになります。ですから、日常生活に著しく支障をきたした状態をつくらないということが実は非常に大切なポイントになります。
認知症の症状にどのようなものがあるかというと、例えば記憶障害や見当識障害があるのですが、これらは認知症の中核症状と言われています。このような状況が続くと今度は突然攻撃的になったり興奮しやすくなったり、また徘徊などもでてきます。これらを行動・心理症状(Behavioral and Psychological Symptomsof Dementia)略してBPSDと言いますが、BPSDは今まで周辺症状と言われていました。ところが考えてみると、「日常生活に著しく支障をきたした状態」は、どうしてつくられるかというと、実は記憶障害や見当識障害は大した問題ではなく、むしろ突然攻撃的になったり興奮したりすると、社会的に著しく支障をきたした状態になりますので、BPSDの方が認知症を見る場合には大切です。我々の病院には記憶障害や見当識障害で入院してくる人はおらず、むしろBPSDがでてきてそのコントロールが困難になり、入院せざるを得なくなって来るのです。このことを考えると、実はBPSDこそが認知症の主たる症状であり、これをちゃんと解決することによって日常生活に支障をきたさない状態をつくることがひとつの戦略といえるのではないかと考えています。
BPSD出現の原理
認知症の患者さんをみていると、突然攻撃的になったり突然暴力的になったりするように見えます。そして統合失調症の陽性症状にもこのような症状があります。ですから認知症の患者さんのBPSDは統合失調症の陽性症状と似ているのではないかということで薬が使われることがありますが、よく観察すると統合失調症と認知症の患者さんのBPSDは全然違うということに気づきます。例えば病院で患者さんに入浴してもらうとき、患者さんが入浴を拒否して騒いだ。これはBPSDをきたしていると言えます。ですがその患者さんによく話を聞いてみると、実はお風呂の前に喉が乾いて水が欲しかったようで、スタッフに水を頼んだ。ところがスタッフはお風呂の準備で忙しいので断った。これを何度か繰り返していた。我々は「しこみ」と言うんですが、些細なことだけれども機嫌を損ねることの積み重ねが患者さんの中にあり、それでイライラしてるんです。その状態のときに、別のスタッフがお風呂に連れて行こうとしたら堪忍袋の緒が切れて風呂に入らないぞと怒ったのですが、実は何で水くれないんだと怒ってるんですね。このように、認知症の患者さんのBPSDは、何か「しこみ」の状態があり、そして出来事があり、暴発するというストーリーをちゃんと描くことができ、了解可能なんです。ところが統合失調症の陽性症状の場合は、例えば突然電波がきて、天皇陛下からこうしろと言われたというように、今の我々では了解不能なんです。ここが統合失調症の陽性症状とは違うポイントだということが言えると思います。
BPSDはBPSCに比例する
BPSDのDというのはDementia、認知症のことであり、BPSDとは認知症の患者さんが行動的、心理的な異常を起こしているということです。ですが我々は論文のなかで、BPSDに対峙する重要な概念、BPSCという概念があるのではないかと仮説を立てました。このCとはCaregiver、介護者です。そして、介護者の態度が拒否的で否定的であればあるほど認知症の患者さんの問題行動が大きくなり、介護者の態度が寄り添うようになると、潮が引くみたいに問題行動も減るという相関関係にあるということに気付きました。どうしてこういうことが起こってしまうのかというと、例えば認知
症の患者さんに「100引く7はいくつですか」と聞くと分からないと言います。認知症の患者さんは大脳の新皮質と呼ばれる場所の働きが衰えています。ところが新皮質の奥にある情動の中枢、大脳辺縁系の働きはむしろ我々よりも活き活きと残っているんです。特に大脳辺縁系には扁桃体と呼ばれる場所があり、快・不快や安全・危険ということを言葉を介さなくとも瞬時に見分けます。認知症の患者さんは新皮質の機能が落ちているので、むしろ大脳辺縁系がむき出しの状態で、扁桃体の働きが非常に活き活きと残っています。認知症の患者さんは相手が自分のことをどう感じているか、どう思っているのか、それを言葉を介さないで瞬時に見分けられるんです。
大脳辺縁系への刷り込み
扁桃体にはヤコブレフ情動回路という神経回路があり、そこにシグナルが入ると情動回路が刷り込みを起こすということが分かっています。ですから情動の刷り込みが認知症の患者さんには非常に起こりやすい。それを説明するためによくあるのが物盗られ妄想の場面です。ある認知症の患者さんがお世話をする係の方に「私このポケットに昨日1万円札入れたんだけど今日見たらない、あんた盗ったんでしょ」と言うとします。言われた方は自分がするはずないから、あなたが勘違いしているんだということを一生懸命に知的に説明するんです。ところが知的に説明すればするほど「あなたしかいない」と言うもんですから、どんなに人格者の方でもいい加減にしてくれと思うんですね。すると、患者さんの扁桃体に「この人は私のことを嫌った」というシグナルが入り、この人は私の敵だという刷り込みを起こしてしまうんです。
ところが実はこれをよい刷り込みに変えることができるんです。どうするかと言うと、先程の例では知的に説明しようとしましたが、今度は大脳辺縁系を中心に考えて、情動で対応すると話は大きく変わるんです。情動での対応とは、先程のように言われたならば「あらあら困りましたね」と答えます。「必ずどこかにあると思うんだけれども、私は盗ってないし、一緒に探しましょう」と言って、机を開けたり引き出しを開けたりして、「おかしいな、どこかにあると思うんだけれども、どこいったかな」と探してあげて、そのときも「一緒に探しましょう。困ったときにはいつでも言ってくださいね。私はちゃんとお手伝いしますから」と言って、少しでもよい情動の刷り込みをするようにしながら5分ぐらい探したら、「喉も乾いてきたし、これからおいしいお茶を淹れて上げますから一緒に飲みましょう」と言って、美味しいお茶を淹れて一緒に飲むわけです。そして「美味しいお茶だね、美味しいね」という話をします。そのときも「困ったときはいつでもいってくださいね」と言いながらお茶を飲んで、そうするとお茶を飲んだ後に、「さあ、さっきの1万円札をもう一回探しにいくぞ」と言う人はおりません。「美味しいお茶をご馳走になって、どうもありがとうございました」と言って、1万円札の話もどこかにいってしまうわけです。そうすると、この患者さんの方からみて、この方は自分が困っているときにすっと現れて、そして自分を助けてくれる、自分の味方だという刷り込みになるわけです。
キーワードは知的に一生懸命説明するのではなく、むしろ情で対応してあげることがとても大切だということです。情動の中枢である大脳辺縁系を大切にして、知より情で語りかけることをすると、!大脳辺縁系のよい共鳴がもたらされる。あなたは勘違いしている、間違えてるというと認知症の患者さんの自尊心が傷つきます。だけどお茶を飲んでご馳走様ですという話で終わるのであれば、それを言う必要はないですから、自尊心もちゃんと保持されて、BPSDが軽減していく。頑固な認知症の患者さんでも、BPSDが軽減するような状況が長くつくられると、ふと思い出したように、「私のこといつも見てくれてありがとうね」と言うような歓喜的情動を表出することもあります。すると看護師、介護の人たちが喜んで、自分たちがやれることがもう少しあるんじゃないかと考えるようになり、BPSCが軽減し、そしてBPSCが軽減することによってさらにBPSDも軽減していく、そういうストーリーをつくっていくことも可能なんですね。
認知症と薬
ところが、今実際に日本全国でどのような認知症の対応がなされているかというと、実は認知症を恐れるあまり様々な薬が使われているという現状があります。ひとつにはBPSDを抑える目的で使われる向精神薬がありますが、これは認知機能を落としてしまうという問題点があります。向精神薬を使うことによって本来あるべき認知機能を著しく抑えてしまうという現状があります。そのため、日本では作られた認知症がおそらく万の単位であると想定されます。
また抗精神病薬という薬があります。この薬は、認知機能を落としてしまうという問題もありますし、歓喜的情動、相手に対する感謝の表出とか笑顔の表出とかそういうものもできなくしてしまうということがわかっています。ですから認知症の患者さんにBPSDを抑えるためにこのような薬を多用するのは非常に問題が大きいと言えます。元々新皮質の機能が落ちているのですから、唯一残っている大脳辺縁系の機能さえも抑えてしまうと、新皮質も大脳辺縁系も何にも機能しなくなってしまう。それを治療というのは甚だおかしいというのが我々の考えです。
それからもうひとつ抗認知症薬のアリセプトと呼ばれる薬があります。これは認知機能を上げるという目的でつくられた薬ですが、実はこの薬も誰でも使えばいいというものではなく、使い方をよく考えないといけません。抗認知症薬を飲むことで残っている大脳辺縁系の機能に異常な刺激が加わり、BPSDのような症状がでてしまう症例があります。そこで服薬をやめるとNPIというBPSDの指標が元に戻り、改善するということが分かっています。薬は使い方をよく考えないとだめで、例えば食欲がなくなってきたとか意欲がなくなってきたという人には非常にいいんですが、認知機能を上げるという目的で、例えば80歳の人に10mgもの量を使ったらまず間違いなくBPSDをつくってしまいます。例えるならば抗認知症薬を飲むことによってアクセルをぎゅっと踏み、スピードが出過ぎたので今度は抗精神病薬でぎゅっとブレーキを踏み、アクセルとブレーキを一緒に踏んで高速道路を目をつぶって時速100kmで走っているような処方が散見される。抗精神病薬と抗認知症薬の組み合わせをもって入院してくる患者さんがおり、結局どっちもやめると何の問題もなく解決するような症例も散見されるので、やはり薬はかなり限局的な働きしかしないということは言えます。
苦悩的情動から歓喜的情動へ
脳の中で、大脳辺縁系は奥にあり、新皮質は外側を覆う構造になっています。そして新皮質はあくまでも道具でしかなく、道具を働かせるのは情動、情熱の中枢である大脳辺縁系です。新皮質の認知機能が衰えているのが認知症の中核症状だと言い、これを元に戻す色々な薬を開発しようとして失敗し、認知症が治らないと言っているんですが、これは我々からすれば道具でしかない、いわゆる末梢のものなんです。そして大脳辺縁系こそが中核です。この大脳辺縁系がうまく働かない、BPSDこそが実は認知症の中核症状であると我々は主張しています。このような取り違えによって今の認知症が大きく間違えた方向に舵をきってしまっているのではないか。もしBPSDが中核症状であるとするならばやれることはいっぱいあるんです。ですからBPSDを薬で抑えるのではなくて、苦悩的情動を歓喜的情動にスイッチするような方法を展開していく必要がある。それを我々は情動療法と名付
けています。
五感へのよい刺激――嗅覚
五感は大脳辺縁系に対するよい刺激の経路になりますが、その中で代表的なものは嗅覚です。においを介しての刺激は認知症の患者さんに対しても非常によい刺激経路になります。例えば認知症の患者さんにラベンダーのエッセンシャルオイルをつけてあげると、ぼーっとしている患者さんはまず間違いなく「ああ、いい香りだ」とすぐ反応するんですが、これはにおいの経路を使ったものです。そのオイルには酢酸リナリルやリナロールという芳香物質が入っており、それらが経路を介して大脳辺縁系に良い刺激をしているのは間違いないんですが、塗ってあげる、そしていい香りだねと共感してあげる、これがとても大切です。
また、においとして他にはコーヒーにはβ-ダマセノンという芳香物質が入っています。β-ダマセノンは豆をすり潰したときにでる芳香の中に一番豊かに含まれているので、認知症の患者さんに豆を挽いてもらってその豆の匂いを嗅いでもらうといい。そこで我々はコーヒーミルを用意して豆を挽いてもらうということをしています。
視覚
視覚も非常に良い刺激ですが、視覚による刺激には条件があります。それは本人にとって価値がある、本人の好きなものを見せる必要があるということです。そこで我々はビデオカメラを患者さんの家族に貸出して、患者さんの好きだったもの何でもいいから撮ってきてくださいとお願いして撮ってきてもらう。ある患者さんは元気だったときに育てていたコスモスが満開に咲いている映像を家族が撮ってきてくれました。それをコンピューターで編集してショートムービーにして大画面で見せてあげるわけです。その患者さんはミトンの手袋をして、ずっと天井しか見てない人だったんですが、ムービーを見せてあげると、表情が変わって、「あのコスモスが今こんなにきれいに咲いてるのか」と言ってニコッと笑うんですね。どんなに寝たきりでミトンをしてても本人にとって意味のあるものは意味があるんです。ですから、本人にとって意味のあるものを見せてあげるということがとても大切なんです。
このような動画を作成するのは時間がかかりますので、今はちょっと進歩していてIOT(Internet of Things)療法というのがあります。これは患者さんにインタビューして、患者さんが好きそうなものをインターネットを使って即時に映してあげてインタビューするというものです。こうすると非常に患者さんの情動を刺激することがわかっていて、例えば入院のときに何年生まれですかと聞いても分からない方が、IOT療法で犬が好きだったということがわかったんです。それでIOTを使って犬のおもしろ動画を見せてあげたら、笑うんですね。そこでスタッフが「昔犬飼ってたんですか」と聞くと、「コロって犬飼ってたんだよ」と言う。そして色々話を進めていく中で「何々さんは何年生まれなんですか」と聞くと「大正15年だよ」と答えるんですね。後で調べてカルテと符合するとコロという名前も大正15年という生年も全部合ってるんです。ですからおそらく我々の記憶のうち情動に裏付けられた情報は、何か情動のきっかけがあると芋づる式に引っ張ってこれる。このようなことがあると分かっているので、大脳辺縁系を介して良い刺激を加えながら記憶を思い出させるという方法も試みています。
聴覚
それから音も非常に良い刺激として入る場合があります。ホワイトノイズ療法と呼んでいますが、補聴器のような機械を使い、全周波数の60dBの音、ホワイトノイズを聞かせるとある種の認知症の患者さんで「ああいい音だ」という患者さんがいるんです。そういう患者さんは、実は若いときに統合失調症で常に幻聴に悩まされ、加齢により認知症が重なってきたという方なんです。ホワイトノイズを聞くとそちらの方に注意が移って、今まで悩まされていた幻聴から逃れることができ、それで非常に気持ちがいいのだと我々は解釈しています。
触覚
また五感のうち触覚を介した刺激として足浴があります。足浴はどういうときにするかというと、我々の病院に入院してきた患者さんは一週間毎日、また病棟が変更されて環境が変わった患者さんも一週間毎日、必ず足浴することを義務付けています。入院直後の患者さんはしばしば自宅に帰ろうとします。これを放置すると色んな問題行動につながるので、そこで足浴を一週間毎日やるんです。すると三日目か四日目ぐらいになると、その患者さんは帰宅を要求しなくなるんですね。それでこの患者さんにどうですかと聞くと「ここはいいところだね、家に帰っても誰も足を洗ってくれないけれども、ここは足を洗ってくれて気持ちいいから、しばらくここにいることにした」と言うんです。そのように、本人がここがいい場所だと思うと帰宅要求が減るし、ここが一秒一分もいたくないと思うと帰宅要求が強くなるという相関の関係がありますから、それをよい方向に進めるには触覚の刺激が非常によいのです。
認知症情動機能検査について
以上のように、認知症の患者さんにとって最も大切なのは大脳辺縁系だと考えております。ところが今日本では、認知症の検査というと新皮質の機能を見るものしかなく、実は大脳辺縁系を見る検査はないんです。そこで我々は認知症情動機能検査(Mini-Emotional State Examination略してMESE)というものを作りました。これは大きく二つのカテゴリーに分かれます。ひとつは五感に対する反応がちゃんと入るかというものです。もうひとつは総合的情動機能と言って、人情や幸福、不幸などに対する反応がちゃんとあるかを見るものです。
このうち、総合的情動機能の代表のひとつをやってみますと、まず姥捨て山の絵を見せるんです。小学校4年生の子供に姥捨て山の絵を見せて「おばあさんは今息子に山に連れて行かれて捨てられるんだけど、よく見たらこのおばあさん枝を折ってる、これは何で折ってるの」と聞くと子供は「このおばあさんは山に捨てられると大変だから枝を折って印つけて後で帰るためにしているんだ」と答えるでしょう。今度は認知症の患者さんに絵を見せて同じ質問をすると「この枝は自分が山に捨てられるのはしょうがないんだけれども、息子が山から降りるときに道に迷うと困るので、息子が枝を辿って里に帰れるために折ってる」と言うんですね。そうすると「100引く7」が分からなくても、この
枝が自分を捨てに行く子供のために折っているということが分かる。ここにももうひとつ判断の基準があってもいいのではないか。そして調べてみると、認知症の患者さんには認知機能が低くても情動が大変豊かに残っている人が沢山いるということが分かりました。このことから今のデイサービスやデイケア或いは病院を見直してみると、果たしてこのように情動機能が非常に高い人たちに対して、我々はそれを満足させるような質の高いプログラムを提供しているのか、ということを考えたわけです。実際調べてみると、例えばテレビを見せることへの患者さんの情動満足度指数を見てみると、マイナスに振り切れるんですね。なぜかというと、デイサービスとかデイケアでは、家族からデイサービス・デイケアを受けてるときは絶対寝せないでほしいと言われてるんです。けれども認知症の患者さんはテレビの前に座らせられて訳わからないテレビをかけられてますから、段々眠くなってくる。するとスタッフが走ってきて寝るなと起こされる。それを繰り返されると「やめてくれ、せめて寝せてくれ」となる。このように意味のないテレビを見せたりするのは全く患者さんの情動が満足していないのです。
演劇情動療法
一方でプログラムの中で素晴らしくよかったものがあり、それが演劇情動療法です。演劇情動療法とは何かと言うと、我々は人間の情動を最大限に引き出す役割をするのはプロの役者だろうと考え、仙台在住の文学座出身のプロの役者さんに来ていただき、色々なプログラムを定期的にやっていただくということをしました。すると患者さんの情動満足度が非常に高く、BPSDの数値が三ヶ月くらいで非常に効率よく下がるということが分かりました。また歓喜的情動を示す歓喜的情動指数(DEI)というのも上がるということが分かってるんです。さらには、これまで使っていた抗精神病薬が使わなくて済むようになったんです。これは歓喜的情動を創出することによって、抗精神病薬で大脳辺縁系の機能を抑える必要がなくなったということです。抗精神病薬は、命に関わる重大な副作用をおこす確率が高いので、歓喜的情動を創出してそれらをできるだけ排除することができるという意味で、このようなプログラムがとても大切だと我々は考えています。
ペア情動療法
これをさらに発展させる考え方として、ペア情動療法というものがあります。病院の中に舞台を設定して役者さんを呼んで、患者さんと患者さんの家族も来てペアになって観劇してもらいます。ある喜劇を観てもらったとき、それは我々が観ても非常に面白かったんですが、ある認知症の患者さんの家族が「うちのおばあさんはこれ見てもわかったかな、もうちょっと簡単な方がよかったんじゃないかな」と言うんです。後で確認してみると、患者さんは非常に喜んでいた。何を喜んでたかというと、息子さんが笑顔で笑っていた姿を見てすごく喜んでいたんです。患者さんはもしかしたらそのプログラムがよく理解できなかったかもしれないけれども、隣でニコニコ笑っている息子さんを見て、昔の息子だね、と感じたと思うんですね。それまでは色々と問題があって、悪い意味で情動を刺激する言動が多かったので、患者さんから見れば自分の息子が息子でなくなったと感じる状況だったんですが、その場面では昔の息子さんの笑顔を見せてくれたので、それを見て安心しているんですね。ですからこのようなプログラムを使って患者さんもそうですが、患者さんの家族も一緒に楽しんでもらったり、喜んでもらったりするのがとても大切だと考えています。
演劇介護論による認知症介護
このような考え方で介護のあり方に関しても考えていくと、これから演劇介護論が必要になると我々は考えています。まず介護の人たちがなぜBPSCを起こしてしまうのか、それは個別の変わった人がたまたま起こしたということではなくて、誰でも起こりうることなのです。今まで非常によかった人なのに急にBPSCを起こしてしまうというのは心のひとつのあり方であり、BPSC、虐待は常に誰でも起こしうるということが言えると思います。
それを避けるためには、どうしてそういうことが起こるかを知る必要がある。例えば認知症の患者さんと介護する人がいるとして、介護する人が、私がこの患者さんのためにこれをしてあげようと思ってやると、それがうまくいった場合には、私がやっていることが喜んでもらえて私も嬉しいということになるので上手くいく。ですが、もし患者さんに拒否された場合、私がこれだけ心を砕いてやろうとしているのに、何でこの人はそれをわからないで拒否するんだということになります。これが繰り返されると、一生懸命やろうとしているのに患者さんはそれがわからないとんでもない人だという
ことになり、自分が否定されることが、相手がだめだということに置き換わってしまう。それが続くとおそらく虐待とかBPSCを起こしてしまうことにつながってしまう。
そこで演劇介護論という方法があります。それは実際に自分が患者さんに関わるのではなく、この方にはこのような役回りの人であれば合うんじゃないかという役者を立て、その役者を自分が演じ、患者さんに対峙するということをします。するとそれが上手く受け入れられたときにはその患者さんにはその役者が合うということになります。ですがもし仮に拒否されたとしても、その患者さんにはその役者は合わないということになるので、それはやめて別の役者を立ててその患者さんに当てるということにつながるんです。そうすると二回三回とやっているうちに、その人にフィットする役回りが見つけられたらそれはその患者さんに受け入れられるわけです。このように介護者が演劇者になるのに必要なのは、まずここから役に入る、とスイッチを入れて腹から役者に成り切るということ。そして演劇者自身はあくまでニュートラルであることです。そうすることにより役者が否定されたとしても自身が否定を受けることなく、苦悩的情動に陥ることを避けることができるのではないかと思います。物質的豊かさから心の豊かさへ認知症の患者さんを見ていると認知症の患者さんはほとんど欲がありません。お金がないとかいうけれども、これからお金稼ぐとか大きな家に住むとかいい車に乗るとかそういう欲は全くありません。どうしてないかというと新皮質の機能が衰えて物質的豊かさからもう離れてしまっているわけですね。だけど我々はどうしても新皮質の欲から離れられないんです。物質的豊かさがあるがゆえに大脳辺縁系の本来の心の働きがちゃんと表出されにくくなっているということが言えると思います。だけど認知症の患者さんは新皮質の機能が衰えて物質的豊かさにこだわっていませんから、ある意味悟りの境地の準備段階にあると言えると思います。我々は色々なストレスがあってBPSCを起こしたりしますが、演劇介護論を使ってBPSCの状態を本来のやさしさを発揮できる状態にすることが非常に大切です。対して認知症の患者さんは新皮質に基づく物質的豊かさへの欲がないことによって、むしろ大脳辺縁系の情動のあり方を苦悩的情動から歓喜的情動にスイッチする達人なのです。例えば回診のとき私が手を握って「何々さんどうもね」というと手を握られた瞬間にものすごく感激して、歓喜的情動を創生することができるんです。一般の患者さんに私が手を握ったらセクハラじゃないかとか言われて手を握れないですが、認知症の患者さんはそんなの全然関係ない。手を握って大丈夫だよという気持ちがノンバーバルコミュニケーションでちゃんと伝わり「ありがたい」と言ってくれる。認知症の患者さんは余計な欲がないことによって、ささやかなことでも大脳辺縁系の喜びを感じることができる人たちなんだと考えると、むしろ我々が認知症の患者さんからどうやったらその境地に達することができるのか教えてもらわなければならないかもしれませ<ん。
認知機能の限界水準
もうひとつ社会的な問題として言えるのは、例えば今から50年前に銀行に行ってお金を下ろすというと、私は田舎に住んでたものですから、50年前には家の母親なんかは銀行の窓口に通帳と印鑑を預けていて、窓口で何万円おろしてくれというと銀行の人がハンコ押してお金を出してくれる。認知症になっても窓口にいって頼みさえすればいい。ところが今は暗証番号が必要で、忘れたからお金下ろせないということになるんですね。つまり今の世の中はとても便利になったように見えるんですが、非常に認知機能の限界水準が高い、即ち高い認知機能が求められ、そのレベルの認知機能がないと認知症になってしまうという変な世の中になっているんですね。本来は、テクノロジーは高い認知機能を求めなくても皆が限界水準が低くして簡単に過ごせるためにあるべきなのに、今の世の中は逆で、高い認知機能がなければ生きていけないという世の中になってしまっているので、認知症がこれから増えて大変になるのは当たり前なんです。なぜならば、お年寄りが増えるという単純な理由ではなくて、限界水準がどんどん上がっているから、患者さんがたくさん増えるということです。高い認知機能を求める世の中が認知症を作っているという側面があるんです。ですから我々はできるだけ限界水準が下がるようにテクノロジーを開発するべきですし、仮に限界水準以下の人がいたとしても、様々な情動療法を展開して、少しでも本人がよかったと思えるような場面をつくってあげれば、社会的な生活が困難な状況を防ぐことになりますので、今の世の中のあり方をできるだけ限界水準を低くするような世の中を目指すべきではないか。
仏教から学ぶ老年医療
これまで説明してきたことを、日本人の考え方の根幹にあると思われるお釈迦様の教えに関連付けて考えてみたいと思います。お釈迦様のお話される生老病死という苦悩があるならば、その原因をよく考える必要がありますが、我々は原因を一元的に考えております。そして原因が分かれば次に修行があります。認知症の症状であるBPSDはBPSCによってもたらされると捉え、BPSCをなくすようにやっていかないといけないというのが修行に対応します。そして新皮質、認知機能は老化と共に衰えていく、諸行無常であると考えれば、残っている大脳辺縁系を大切にするという考え方があるのではないか。このように我々の老年医療、認知症に対する考え方はお釈迦様の教えに沿った形で対応していると言えるのではないかと思います。翻って今の医療はどうかというと、今の臓器別診療は臓器は完璧に治すんですが、それは心とはまた違う。そして医療技術の進歩を目指し、一分一秒でもカテーテルを早く入れたりドクターヘリを動かしたりするんですが、90歳の方をドクターヘリで運んで寝たきりつくったということも起こっています。諸行無常なのに健康な心身を求めるというのはお年寄りには酷なところもあるのです。そして一分一秒でも長生きするというのはお年寄りに当てはめたら非常にプアな発想になってしまうと思います。現代の一般医療のあり方は、若い人、障害をお持ちの方々をなんとかよくしていくということにおいては、色々な科学技術、遺伝子的なものも含めて対応するのはいいと思うんですが、認知症、老年医療にこのようなものを当てはめると何のためにそれが行われているのかが段々明確でなくなるということがありますので、我々はブッダの知恵に沿った形で医療を展開していくべきです。そして我々の提唱する考え方はひとつの原動力になりえるのではないかと考えているところです。
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