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NVNニュース 第20号(平成27年9月23日発行)
日蓮宗ビハーラ・ネットワーク
Nichiren-syu Vihara Network
NVN事務局 香川県丸亀市南条町9番地1 宗泉寺
〒763-0046 Tel 070-5355-9856 Fax 020-4664-6973

平成27年度NVN総会

 平成27年5月12日(火)、日蓮宗宗務院に於いて、NVN(日蓮宗ビハーラ・ネットワーク)平成27年度総会が、会員21名の参加にて開催されました。
 はじめに、今田忠彰世話人代表より挨拶があり、続いて、事務局一任にて渡部公容師(NVN世話人)が議長に選出され、議事が進行しました。平成26年度活動報告・決算報告・会計監査報告が承認され、次いで、平成27年度活動計画(案)・予算(案)も資料の間違いを訂正して、承認されました。
 今年度は会計監査の改選年度に当たり、3年間会計監査をして頂いた小林貫誠上人、吉田尚英上人に代わって、齋藤澄泉上人(千葉県法泉結社教導)、塚本妙風上人(千葉県福現寺住職)のお二人にお願いしたいと今田代表より提案があり、拍手で承認されました。
 また、小林貫誠上人、吉田尚英上人には代表より世話人就任の要請があり、小林貫誠上人はお引受下さいました。吉田尚英上人は保留ということで、今田代表は「吉田上人が世話人を引き受けて下さるようなNVNになれば良いな」と話されました。
 総会に続いて、記念講演が行われました。今年度は「公開講座〜情報発信〜」と題し、「東日本大震災被災地からの報告」として、佐々木格氏・祐子夫人、宮村妙洋氏、須田めぐみ氏に、被災地からの報告をして頂きました。

平成27年度総会記念講演

〜情報発信〜 「東日本大震災被災地からの報告」

佐々木格氏
佐々木格氏
 講師先生は、岩手県大槌町の癒しの庭「ベルガ−ディア鯨山」設立者です。ガーデンデザイナー・実務園芸師・樹医でもあります。心の重荷を話せる「風の電話ボックス」を設置したり、「ベルガーディア鯨山」を舞台に、さまざまな団体と協力しながら被災地の復興を目指しています。子どもたちのための「森の図書館」で読み聞かせやコンサートを開いたり、次世代を担う子どもたちを育む活動も行っておられます。

1.自己紹介
 岩手県大槌町から来ました。講演依頼を受けた時、二つ返事で受けさせて頂いたのですが、ビハーラ活動の専門家だということで、非常にしまったと思いました。私は、宗教者でもケアの専門家でもありません。何故ここに来ているのかというと、受けたものはしょうが無いという考え方だからです。「物事の善し悪しは、すべて見る人が決める。全てのものは、ただそのままにある。物事の真実は見る人の立ち位置によってある。物事の事実は唯一一つのものである。」これが私の信条です。そこで、事実だけ話しをしようと腹をくくってやって来たわけです。

佐々木格氏講演の様子
2.東日本大震災・巨大津波を体験して
 東日本大震災は日中に発生しています。平成23年3月11日の14時46分に地震が発生しました。15時20分頃、津波が押し寄せています。子ども達は保育園や幼稚園、大人は仕事。家族といえどもバラバラに居たのです。家族であっても、お互いに連絡の取りようが無かった。誰が何処でどうなっているのか、生きているのか死んでいるのか、まさに神のみが知るという状態が続いたのです。私も、津波が来るのを高台から見ていました。
 第一波が襲ってきている。第一波で、建物や車が流されていくのを見ています。それから、第二波が来ている。死んでもおかしくない状況で、幸いに自分は助かりました。私は今まで、自分自身が自分の力で生きてきていると考えていました。
 震災の津波の惨状を目の当たりにして、眼に見えない大きな力で生かされているのだと感じました。生かされた命を、どう使っていったらいいんだろうと考えました。誰が亡くなってもしかたない状態の中で、どう生きなければならないかを真剣に考えました。

3.風の電話
 震災前、ガーデンをやっていたので、環境的には整っていました。全く新しいことを始めるのは冒険がいるのですが、今まで12年間やってきたことを活かすガーデンのノウハウを活かした人の為になることをしなければならないのではないかと考えていました。
 最初にやったのが「風の電話」です。家族が亡くなって、残された家族と「風の電話」で繋ぐということをやりました。実は、震災前の平成22年11月から工事は始めていました。震災後に急いで4月の中旬に完成させました。
風の電話
 震災前の平成22年の時に、何故「風の電話」を作ろうと思ったのかというと、54才の時に仕事を完全にリタイアて山の中に入ったのです。ガーデンをやりたくて、土地を探す条件として、海が見えて山の中で・・・。たまたま見つかって、土地を買ったのです。妻は仕事をしていたので、仕事に行くと一人になります。山の中での生活は、土とか石と格闘していました。たまにやって来るのが森の中の小動物で、ほとんどの時間、石と土との格闘、小動物とのコミュニケーションです。動物も植物も人の言葉は分からない。自分が相手の気持ちになってやらないとコミュニケーションが取れないのです。動物も木も、喉が渇いていないだろうか、水が欲しいだろうか、と思わないと分からないのです。鴨も同じです。手から餌を与えられるようになったのです。動物たちにも名前をつけました。名前を呼ばれると、そばに寄ってくるようになります。キジや鴨の頭をなでられるようになりました。
 「風の電話」で亡くなった方と残された遺族の想いを繋ぐ、寄り添うという発想から、風の電話が出来たと思います。
 「風の電話」の創作手順では、まず「風の電話」という詩を作りました。従弟がガンになって末期症状でした。書をやっていたので、書かせれば元気になるのではないかと思って、病院に詩を持っていって、紙と筆を持っていって、書いて貰いました。従弟の死というものがありましたが、実際に「風の電話」を立てようという気はその時はまだ無かったのです。うっすらと、作りたいという想いはありました。
 11月に一周忌をやって、親族が集まりました。従弟の家族の為にも早く立ち上げなければならないと思うようになって、11月の半ばに「風の電話」の工事に入りました。「風の電話」の詩をパートナーである佐々木祐子に読んで貰います。

「風の電話」   ベルガ−ディア鯨山 佐々木格   朗読(佐々木祐子)
  「 人はみな過去を持ち、現在があって未来がある。
またその時々に出会いがあり、別れがある。
風の電話はそれらの人々と話す電話です。
あなたは誰と話しますか。
それは言葉ですか。文字ですか。
それとも表情ですか。
風の電話は心で話します。
静かに目を閉じ、耳を澄まして下さい。
風の音が、または波の音が、あるいは小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの思いを伝えて下さい。
思いはきっとその人に届くでしょう。」

 人生の中で、一冊の本が、一つの言葉が、一つの出来事が、其の人の生き方を変えてしまったということはよくある事です。私にとっては、震災が私の一生を変えたと捉えています。
 今でも、震災当時を思い出すと、悲しみが出てきます。津波がやってきて、津波に流された。波がどんどん襲ってきた。1階から2階に逃げた。更に屋根に逃れたという方も居る。家が海の方に流されていった。流されて行く屋根の上で、笑って手を振っていたというのです。それで、見送った家族もあきらめたんです。笑っているように見えたのが不思議でならない、というのです。2階に逃げても、津波・水攻めの次に、火事・火攻めにあってしまったという人もいます。
 色々な状況の中で、最期の瞬間は、家族のことを想いながら亡くなったと思います。残された遺族にも想いが残りました。一言でも会話をしたかった。お互いに想いが残ったのです。そんな想いをつなぎ合わせるものが必要だ・・・それが「風の電話」なんです。繋がるものがないと、絶望だけが残るのです。
 電話線は繋がっていないけれども、風に乗せて想いを伝えることができるというのは、大切なことではないでしょうか。これが、「風の電話」を作った想いなのです。
 残された遺族の中にも、安心感というか、安定を求める方もいます。人の見方も色々ですから、そんなことがあるものかという人もいます。
 「風の電話」では、震災から3年すぎて1万人、4年が過ぎて1万5千人の人が、想いを伝えています。風の電話でどんなことを呼びかけているのか、ノートで紹介してもらいます。
 風の電話には、ノートが置いてあります。今はこれが二冊目です。

「風の電話」のノート     朗読(佐々木祐子)
・平成23年5月、一番最初にこられた方のお話
  「昨日、あんなに激しく降っていた雨もうそのように晴れ、今日は爽やかな日だよ。あの日から2ケ月経ったけど、母さん、どこに居るの。親孝行できず、ごめんね。会いたいよ。絶対見つけて、お家に連れて来るからね。」
・平成23年8月頃の男性の方のお話
  「親父さん、あなたの白髪がとにかく懐かしいです。私は、これからの生活に全力を出して、あなたの娘を守ってゆきます。」 
・次の年の5月頃
  「お母さんへ、強い子に育ててゆくのが私の子育てって言って、私を育ててくれました。お父さん、お母さんが亡くなり、兄弟もなく、仲の良い友達が何人も亡くなってしまうと、本当に寂しくって、こちらで一人で頑張っていることが苦しくなります。親しい人が多いそちらへ行きたくなることが、度々あります。お母さんに会える日まで、私がこちらで頑張って生きてゆけるよう、見守っていて下さい。会いたいです。夢でもいいから会いたいです。」
・次の年の5月息子さんを無くされた女性の方
  「会いたくて、会いたくて、声が聴きたくて、やっと風の電話に来てみました。もう痛くないよね、苦しくないよね、腹減ってないか。あなたの悔しい思いを、ずっと・・語り継ぐからね。おかんは、その為だけに生きてゆくからね。早く会いたいな。同じことを繰り返さないように、それが、あなた方への功徳になりますように。未来へと語り継ぐ。」
・同じ年の6月の頃
   「父ちゃん、暫くだね。二人で話しすれども、涙になって何を話していいか。一目だけでもいいから、夢でもはっきり会いたいよ。」

4.子を亡くした親の悲しみ
 このように、いろんな方々が来られています。震災で家族を失った方だけでなく、何らかの形で家族を亡くした方々も来られています。
 そんな中で、私の心に残った事例を紹介します。
 これは、平成25年の11月11日頃、冬の木枯らしが吹き始める頃のことです。私が庭で仕事をしていたら、年配の方が3人くらい来られているというのです。大概はしばらくすると、図書館やカフェに上がってこられるのですが、どなたも上がって来られないので、おかしいなと思って、下に見に行ったのです。其処には誰も居なかったのです。変だなと思って、電話ボックスの中に入ってノートを見ました。「かつや、早く家に帰ろ 父母、祖父母」と書いてありました。震災で子供さんが行方不明の方かと思いました。
 以前人から「必要な方に渡して下さい」と陶器のお地蔵様を預かっていましたので、その人に、お地蔵様を渡したかったのです。
 役場に行って「かつや」という人の両親を探して欲しいと言ったら、非常時であっても個人情報がひっかかってくる、警察に行っても同じ様な答えが返ってくるのです。翌年の3月11日、震災から3年目、TVの取材でスタッフが入ってきました。情報網で、「かつや」という人の家族を探せないだろうか、と聞いてみました。翌12日、ツイッターで「かつや」という名前を友人が呼びかけているというのです。会社に電話してみたら、「かつや」という名前の方が行方不明になっているというのです。両親の名前が分かりました。「私は、風の電話というのをしていて、お地蔵様を手渡したい」と言いました。会社から両親が大槌に行っていると聞きました。携帯の番号を教えるから電話してみて下さいというのです。電話してみたら、岩手県の端の方、青森に近いところにいました。
 毎月一回は行方不明の息子の手がかりを探すために来ているそうです。ご両親と祖父母がやってきて、お地蔵様を手渡すことができました。
 仙台の会社に就職して長期出張で大槌の方に来ていて、電気通信関係の仕事をしていました。7人のうち6人が行方不明になった。2人は山に逃げて、4人は2階に逃げた。「かつや」さんは、まだ見つかっていない、といいます。親としては、そのまま時間が止まっているのです。今自分が何をしているのか、訳が分からない、といいます。子どもを亡くした親の悲しみ、苦しみは、非常に大きいものがあります。

5.グリーフケア
 「里親の会」というのをやりました。親を亡くした子どもと、子どもを亡くした親。同じ境遇にあっても、なかなか打ち解けられないのです。ピザを親子で一緒に作って食べるようにしたら、いっぺんに打ち解けられました。
 「悲嘆」という、グリーフ状態になるということは、心がケガをすることです。心がケガをすると、悲しみや苦しみが、どんどん湧き出てくるのです。正常なグリーフというものがあるらしいのですが、グリーフの状態を通して、通常の状態になってくるのです。時間が止まったままでいるという人もいます。ケアが必要になってくるのです。
 真宗大谷派の金子大栄さん(明治14年〜昭和51年)の著書の中に、ケアに当たる人は是非心の中に留めておくべき優れた言葉があります。
「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われる、涙は涙に注がれる涙に助けられる」
 グリーフ状態に陥った人に寄り添うという気持ちが大事なことです。寄り添おうとして寄り添わせていることがあります。こうすればケアが必要な人は安心するだろう、という思いで、そうさせようとしているのでしょうか。でも、寄り添うということはそういうことではないのです。
 同じ方向を向いて、その課題を受け止めて、一緒に泣いてやることが、寄り添う事になるのです。
 グリーフ状態の時は、どうしても話もしなくなる、笑顔がなくなる、表情もなくなる。自分の殻に閉じこもってしまって、どうすればよいかが分からない状態になってしまっているのです。そういう状態が3年も5年も続くと云われています。今だに悲しみは無くならないのです。
 悲しみやつらさはいつまで経ってもなくならないのです。人には自然治癒力がありますから、時間の経過と共に自分自身が、やはり生きていかなければなら
ないと思うようになります。
 思い出すことで自分自身が壊れそうになります。思い出すことで故人を懐かしむようになって来ます。寄り添う人があって出来る事、自分自身の人生の意義に向き替えをすることが出来るようになるのです。
 風の電話を通して見るとどうなのでしょうか。
 グリーフ状態になった人が電話に来たいということは、一つの意志を持つことになります。「自分の想いを伝えてみたい」という意志を持つということはとても大事な事です。風の電話で話をする、自分の想いを吐露することによって、悲しみ、苦しみを軽減することが出来るのです。
 話すということは、他人であっても電話であっても、自分自身の感情や想いをぶつけることによって、悲嘆を軽くすることができるのです。
 ベルガーディア鯨山には、花も小動物もいます。接することで感動するという感情が生じて来ます。癒されてきて、グリーフの脱出のきっかけになるのではないかと考えています。

6.森の図書館
 ベルガーディア鯨山の活動の中で「森の図書館」という活動があります。子ども達の感性を育てることを目的としています。
 大震災によって、子ども達は学校も図書館も本屋も無くなってしまった。見るのは瓦礫の山、瓦礫が無くなったあとは、何も無いのです。盛り土をするためにダンプカーが頻繁に行き来しています。
 子どもの人格を育てるのには、環境が大切です。育つ環境は将来に影響します。私は岩手県出身ですが、岩手県には宮澤賢治という人がいます。童話作家ですが、彼が子どもの時代はどうだったのかというと、母親の宮澤いちさんの宮澤賢治さんへの教えというのがあります。母親が子どもの時に寝る前にいつも言った言葉です。
「人というものは、人の為に何かをするために生まれて来た」
宮澤いちさんは、毎晩寝る前に教えたといいます。
 誰か人の為に・・・、本当の幸いとは・・・、「利他の精神」が彼の作品に流れています。子どもの置かれる環境は大事だと考えています。
 そこで、ガーデンの豊かな自然、豊かな環境の中で本を読んで貰いたいという思いで、平成24年4月に図書館を立ち上げました。
 学校や図書館は、子供たちにとって、安心・安全なものです。これが流されてしまったのです。本があって建物があれば図書館と言えます。本当に大切なものは何なんだろうか。意識の中に衝撃的なものが目覚めたであろうと思います。
 物事の本質とは何か、を判断する感性を育てて欲しいです。最近は、眼に見えるもの、耳に聞こえるもので判断する傾向があります。良く考えないで結論を出す風潮があります。眼に見えるものや聞こえるものだけで判断するのではなく、眼に見えないものを見る、聞こえないものを聞くという感性を養って欲しいものです。
 感動する、美しいものを見る、本物にふれる機会を多くする。図書館の中だけでなく、図書館の本を外に持ち出して、森の中で見なさいと言います。すると、本の中の世界がすぐそばにある。野菜も花も小動物もある。人に教わるのではなく、自分でそれを学び取るというのが大切です。自分自身が自ら学ぶ姿勢を持つということが、本質を掴むことが出来るようになるのです。そうすることによって、日本の社会はよくなっていくのではないかという夢を持っています。

7.最後に一言
 NHKの復興応援歌に「花は咲く」があります。いろんなところで歌われています。子ども達が歌うのを聞きました。歌詞の中に、「今度生まれる子ども達、あなたがたは何を残すだろうか」というのがあります。
 震災で多くの方々が亡くなっている。今生きている者は、亡くなった方、今度生まれてくる子ども達に対する責任がある。我々が責任を持って住みやすい世の中を作る責任がある、という事です。
 ご清聴頂きまして、有難うございました。

宮村妙洋氏
宮村妙洋氏
 宮村妙洋先生は、ご主人の宮村通典先生が僧侶として医師として、東日本大震災被災地支援の為に、長崎から岩手県の大槌町に移住される時に、ご主人と共に移住され、看護師として被災地の人々の心に寄り添う活動をされてきました。当時は寺庭婦人でしたが、最近得度され、「妙洋」と改名されました。

1.はじめに
 宮村妙洋でございます。お陰様で、大槌町に移住しまして4年目に入りました。東北の生活環境にも慣れ、今日ご講演下さった佐々木ご夫妻はじめ、知人、友人も増え、同時に行動範囲も広がりました。大槌町の復興状況ですが、盛り土や道路変更等により町の風景も様変わりしてきました。工事の遅れは多少あるようですが、着々と復興してきております。
 では、私がこれまで関わって来ました支援活動などの報告をさせて頂きます。

2.水産加工業者の復興状況と支援活動について
ど真ん中・大槌
 皆様ご存知のように、水産業者の方々も津波によって、大きな打撃を受けました。そこで鮮魚店や水産加工業者4人が「ど真ん中・大槌」漁業組合を立ち上げました。その組合資金を集めるために、全国に支援サポーターの募集を行い、また大手企業からの支援金も集まり、それを基に水産加工業の再開を早々にされました。大槌町漁港に水揚げされた魚貝類を新鮮なうちに商品化、また商品開発をおこない復興を目指している組合で、店での買い物やインターネット注文も出来るシステムを取り入れています。    そのような中、3月21日「ど真ん中・大槌」の販売所が新しく完成しました。全国から支援して頂いたサポーターさん達もお祝いに来られ、地域住民も参加して盛大な記念式典が行われました。私もサポーターさんや集まった住民の方々に試食して頂くために台所(裏方)のお手伝いをしました。皆さんの喜んでいる様子を見ながら、着々と復興して来ている事を実感しました。私がこれまで関わって来た事は、海産物などを購入(贈答用、ちょっとしたお使い物に使う等)、「ど真ん中・大槌」の店が出来たことを知人、友人に紹介するなど地元の情報を発信している事です。このように、地元の情報をささやかながら発信して復興を目指す手助けになって行ければと思っています。

3.大槌町の中学生への支援活動について
鮭Tシャツ
 大槌町には、中学校が2か所あります。震災後、早い時期からこの中学生を支援している長野市ボランティア「鮭Tシャツプロジェクト」団体があります。このボランティア団体の活動内容ですが、Tシャツや、タオル、バッグ等の商品を作成。これをインターネットで販売をしています。その売上の一部を大槌町の中学生の部活動費等に充てるという支援事業です。
 この商品は、岩手県詩人であった宮澤賢治さんの「アメニモマケズ」の応援メッセージと、沿岸部特産の魚「ハナマガリ鮭」のイラストが入った商品です。
 長野市ボランティア団体との出会いは、お互いの被災地支援をきっかけにお付き合いが始まり、被災地の子供たちへの熱い思いや支援活動などを聞きました。詩人の宮澤賢治さんのファンと同じ被災地に対する熱い思いが共通点です。大槌町に義援金を持って来られる時には連絡をもらい、活動報告や、情報交換を行っています。このボランティア活動は当初2年間の予定でしたが、全国からの支援者や賛同者が多く、支援の輪が広がり現在も継続しています。また、中学生同士の訪問活動もされています。長野市の生徒会で鮭Tシャツなどを販売し、寄付金を集める支援活動もして頂いているそうです。寄付金の大小ではなく、震災の被害を受けた相手を思いやる気持ち・助け合う精神・心などが生れているのが大切だと思います。
 このように、長野市ボランティアの方々達により大槌町の中学生が支えられている事に感謝をすると同時に、私に出来る事は、鮭Tシャツプロジェクトの商品の購入や家族を始め友人、知人に紹介したり、出先でお話をしたり、あらゆるところに情報を発信し、少しでも関心を持ってもらいたい、という思いでいます。これから将来の夢や希望のある中学生の成長を助けるためにも、地道にこつこつと支援活動のお手伝いをしながら、見守って行きたいと思っております。

4.被災地における健康調査活動に参加
 「いわて東北メディカル・メガバンク機構」と言いまして、東日本大震災による被災地における医療の再生と長期的に健康調査をするものです。この事業は文部科学省と復興庁の事業で被災地医療機関の復興とともに遺伝子研究を行うことを目的としたものです。
 私たちは、市町村の健診に同行させて頂き、この健康調査に関わってきました。調査活動のきっかけですが、沿岸部地域の慢性的看護師不足があった為、「被災地医療支援」のお手伝いになれたらとの思いで2年余り、今年の1月までのお仕事として参加してきました。この健康調査で感じた事は、沿岸部特有の食習慣や生活習慣等によって病気が発症しているのだと感じました。また、震災後の生活環境の変化によって(狭い仮設での生活や運動不足など)不眠や精神的ストレスなどを抱え、心身の変調をきたしている方も多いようです。今後、更なる研究によって解明され、健康向上を目的としての被災地医療の発展、開発に繋がるのだと確信しています。以上が関わってきた医療支援の活動報告です。

5.心の復興支援活動(傾聴ボランティア)について
 昨年6月、傾聴講習会を終えたばかりの大槌町民によって「傾聴ボランティア・大槌ひまわりの会」が発足しました。発会式当日、急遽、出席依頼があり、宮村通典上人と共に出席いたしました。会の目的として、高齢者施設訪問、高齢者単身世帯をはじめ、孤立しがちな家庭を訪問するなど、傾聴、見守り活動をしていく等の活動内容でした。大槌町民によって立ちあがった「傾聴ボランティアの会」は、中には被災者であり仮設住宅で生活しながら、「何かお役に立ちたい」と言う方もおられます。そこで、私たち夫婦に出来る事として、これまでの経験を活かして、「ボランティア団体を支えてゆきたい」と申し出ました。これまでも宮村通典上人も参加してアドバイス等をしてきましたが、最近は私一人で参加して、傾聴時の対応の仕方、方法やノウハウなどを伝える活動をしています。
 町民の現状として、仮設住宅から災害公営住宅に転居する人、財源的に転居が困難な人や土地の問題で再建がなかなか進まない人、中には家族を亡くし喪失感で孤立しがちな人もおられます。長引く仮設生活等で抱える問題は複雑で深刻化しているようです。また、独居老人や認知症問題も発生し、近隣トラブルも聞きます。こうした中、行政からの見守りサービス等や毎週金曜日午後から、心のケアとして「震災ストレス相談室」もありますが、住民による傾聴ボランティアの活動は大切な役割だと感じます。
 私にできる事は、「傾聴ボランティアの会」会員の活動が更にしやすように、町役場や社会福祉協議会、あるいは諸団体との連携作りと、問題点などを一緒に考えながら、アドバイスを行うなど、引き続き「傾聴ボランティアの会」会員の方々のサポート支援を行ってゆきたいと思っています。

6.震災で亡くなられた方々のご供養について
 週末には大槌町の蓮乗寺で、宮村通典上人とご供養をさせて頂いています。これまでNVNのお上人をはじめ、女性教師の方々や青年僧侶の会、各地から多くの僧侶の方々がおいでになりご供養頂いています。
蓮乗寺本堂
 今年の3月11日は、強風と時折雪がちらつく中、蓮乗寺ご住職を先頭に、立正青年僧侶の会、檀信徒さんと一緒に唱題行脚に参加させて頂きました。途中から曹洞宗の僧侶の方々と合流し、体育館で行われた合同慰霊祭に参加しました。大切な家族を亡くされ、いまだに行方不明の方もおられます。まだまだ、深い悲しみに包まれて生活しておられる事が感じられます。
 そのような中、震災により全焼しました蓮乗寺本堂が竣工いたしました。4年余り、プレハブでの不自由な生活を強いられ、また2年前には強風でプレハブの屋根が吹き飛ばされるなど大変な経験、思いをされていました。今年4月18日プレハブから、出来上がった本堂に引っ越しがなされました。檀家さんと一緒にお祖師さまのご移動、歴代お上人のお位牌。また、預かっておられる身元不明のご遺骨など、お題目を唱えながらお手伝いをさせて頂きました。私たちを始め、檀家さんや、町民の方々も寺院の竣工を待ち望んでおりましたので、喜びはひとしおで、皆さんと一緒にお題目をお唱えさせて頂きました。現在、庫裡など建築中ですが、信仰の拠点が出来た事により、これから、ますます地域に根づいた信仰が広がる事を祈念したいと思います。これからも蓮乗寺に通い、被災者のご供養をさせて頂きたいと思っています。

7.今後の支援活動について
 出来るだけ町の行事等に参加するなどの、出会いを大切にしながら「心に寄り添う支援活動として私にできること」をお手伝いして行きたいと思っています。
 以上が、ささやかながら私がお手伝いさせて頂いた大槌町での復興支援活動の状況などを報告させて頂きました。今後とも宜しくお願いします。

須田めぐみ氏
須田めぐみ氏
 次にご講演頂くのは、須田めぐみ先生です。須田めぐみ先生は、私たちNVNと共にボランティア活動をして頂いている、NVNと関係の深い方です。須田先生、よろしくお願い致します。

「今伝えたいこと 〜被災者から見たボランティア活動について〜」

1.はじめに
 宮城県女川町社会福祉協議会から参りました、須田めぐみでございます。今回、皆さまにお会い出来る機会を頂いたことに感謝申し上げるとともに、東日本大震災の被災に当たって、色々とご支援を頂いたことと思います。この場をお借りまして、被災者を代表し、御礼を申し上げます。有難うございます。
 私は、女川町の社会福祉協議会にお勤めしております。震災後のボランティアセンターを立ちあげ、主にボランティア活動の受け入れ窓口として、あわただしい活動をしております。ボランティアの活動がどうだったかについて話す事が出来る人はたくさんいると思いますが、被災者の立場で、自分の言葉で伝える事が出来る人はそう多くないと思います。今日はそんなお話をさせて頂きます。

2.女川町の震災前と震災後
 震災前の女川町の姿をご覧下さい。青い海、自然豊かな町です。宮城県の端っこにあります。「港まつり」が毎年7月の最終の土日に行われていました。震災後は、華やかなお祭りは行われていません。女川の津波の写真をご覧下さい。津波の時に、ユーチューブでよく流れていました。高台から撮った町並みの風景です。津波前と津波後とでは、これほどまでに変わってしまいました。
震災前の女川町 震災後の女川町
 震災前の女川町は、人口10,016人、小さな町です。高齢化率が33.4%、宮城県の中でも2番目3番目に高齢化率が高い地域です。今では36%を超えています。産業は水産業と観光です。女川町には、有名な原子力発電所があります。福島のような大きな事故にはなりませんでしたが、3基の原子力発電所があります。

3.震災・津波の時、私が見たもの
 私が勤めている社会福祉協議会の建物は、海抜16メートルという高台にあります。地震の時、私は事務所の中で仕事をしていました。大きな揺れの時、私は時計を見ました。2時46分でした。女川町社会福祉協議会では、高齢者のデイサービスセンターをやっていましたので、すぐに駆けつけました。身体機能が低下している方々でしたので、歩行が困難な方もいます。また、車椅子を利用の方もいます。そういった方々を屋外に退避させました。3月ということで、外は雪がパラパラと降っていました。私達の事務所はガラス張りの事務所でした。利用者さんをその中に入れるわけにはいかないので、向かいの病院に避難しました。地震の後で車の往来が激しい中、私も車椅子を押しながら避難しました。病院の中にも、ガラスが散乱していました。病院に着いた時、職員が「もっと高いところ、2階3階に避難して下さい!」と言う声が聞こえました。海抜16メートルという高台に居るのに、もっと高い所に行く必要があるのかと思いました。私はブツブツ言いながら、車いすを押しました。大きな地震の後、エレベーターは止まっています。2階3階に上がるには、階段を使うしかありません。階段の下は順番を待つ車椅子でごった返しています。
 その時、急に外がザワザワと音がしました。誰かが「津波だ!津波が来たぞ!早く逃げろ!」と叫ぶ声がしました。私は『エッ、津波?』そう思いました。でも、私の目の前で、私よりはるかに高い波の上で、車がおもちゃの様に揉みくちゃにされているのが見えました。『アッ、津波が来るって本当なんだ』そう思いました。やがて津波は、私の膝の高さに、腰の高さに、腕の高さに。私が押していた車椅子が徐々に浮き上がり、やがてクルッと、ひっくり返ってしまいました。私も車椅子に乗っていた利用者さんも流されています。濁流の中で流されてゆく。利用者さんと目と目は合うんです。でも、二人とも流されてゆく。手を伸ばしても届かない。やがて流れが変わって、私は男子トイレの中に流れ着きました。トイレには洗面台がある。私は洗面台の上に立ちました。そして、天井を触ったのです。すぐそこに天井がある。『ここまで波が来たら私は終わりだな』そう思いました。そうしている内に、色々な物が流されてきます。人も流されてきました。生きているか分からないです。その人を助け上げました。「大丈夫?聞こええる?」「ウーッ」といううなり声。その人を抱きかかえました。また一人流されてきました。その人は自分の名前が言える状態でした。大声で助けを呼びました。消防団の人が助けに来て下さいました。私たちは、3階4階に流れ着きました。上がった時の光景は、今だに忘れられません。沢山の人が床にゴロゴロと寝かされています。口からは海水を吐いています。ドクターも来て診ています。でも、やがてその人から離れて行きます。何を意味しているか分かりますか。それはその人の死を意味しているものでした。病院の外は、まるで海のよう。私はその晩、一歩もそこから外へ出ることが出来ませんでした。
 そういう時、考えることは家族の事です。私の主人は建設関係の仕事をしていました。青森に出張中でしたので、『まあ大丈夫だろう』と思いました。私の両親は、日ごろから「地震が来たら津波が来るから高い所に逃げなさい」と言っていた両親だから、『両親は大丈夫だろう』と思いました。私には、2人の男の子がいました。上の子は高台に建つ小学校に通っていました。2時46分、まだ下校前です。『何とか子供たちを学校に抑えていてくれるはずだ。上の子供は大丈夫だろう』と、そう思いました。問題は下の子でした。海岸から1キロも離れていない保育所に通っていました。2時46分は、保育所ではお昼寝の時間だったのです。95名の小さな命。その時、薄情に聞こえるかもしれませんが、下の子供は死んだと自分に言い聞かせました。自分は、16メートルの高台の病院にいて津波に呑まれたのです。あの小さな子供たちが、お昼寝のあと、起きて避難できたか。きっと生きているなんて思えなかった。『もうあの子を抱くことはないだろう』と、スーッと覚悟は出来ました。色々なうわさが聞こえてきました。あそこの保育所の子供たちは、逃げようとして、外へ出てみんな津波に流されてしまったんだって。下の子は小さく生まれた子でした。片方の眼がほとんど見えないのです。メガネをかけて暮らしていました。『甘えっこの子が、濁流の中をどんな思いで流されていったんだろう。きっと、「ママー!ママー!」と言いながら流されていったんだろうな』。そう思いながら、下の子の死を覚悟した夜でした。

4.震災後、私が見たもの
 これが、陸に津波が押し寄せた後、引いてゆく映像です。真っ黒い津波が、何波も何波も押し寄せてきます。この高台に私が勤めていた社会福祉協議会の建物があります。高台にも関わらず、周りがずっと海のようでした。津波が次から次と、何波も押し寄せて来ます。次の日の朝方、ようやく町に出られるという状態でした。震災前、女川町には、6,511棟の建物がありました。被害が無かった建物が946棟。私の家も含めて、4,300棟余りの建物が津波に流されてしまいました。人口も、1万人以上でしたが、9,100人余りになってしまいました。これだけ多くの人が助かったという見方もありますが、800人以上の人が亡くなったり、行方不明になったりしています。主人の母親も祖母も亡くなりました。母親はいまだに見つかっていません。多くの電信柱も流されました。水道管も流されました。復旧には、だいぶ時間が掛かりました。炊事も出来ませんし、洗濯も出来ません。洗濯は川でしました。日本昔話のようでしたが、多くの女性たちが川で洗濯していえる風景を、この時代になって見るとは思いもしませんでした。

5.被災地「女川町」で、寺院が担った役割
 私が個人的に思ったことですが、被災地「女川町」で、お寺が担った役割とは何だったのか。
 以前、東京東部の研究会でお招きいただいた時、「大震災の時、お寺にどんな役割が考えられるか」というものがありました。お寺には3つの役割が考えられえるというものでした。@帰宅困難者の一時受け入れ場所、A物資の配給場所、Bご遺体の安置所、です。
 女川町では、お寺は遺体の安置所ではありませんでした。ご遺体は安置して終わりではありません。ご遺体は腐ってしまいます。女川では、グラウンドのような広い所にテントを張って、ご遺体を安置しました。私も母親を探しに、遺体安置所を回りました。通常でない死に方をしています。そういったご遺体をお寺に安置するのは適当でない、と思います。
 女川町では、震災前、6つのお寺がありました。コンビニの数より多いです。その中で、2つのお寺が避難所として、長期に渡って活動しました。お寺とは、どういうところだろうか、と考えてみました。自分の菩提寺だとか、宗派だとか、そういう見方をするのではなく、「近くのお寺」「駆け込み寺」という意識です。地震の混乱の中で、住民は宗派を選んで避難したわけではない、という事です。お寺は、亡くなった人を供養する場所というイメージがありますが、生きている人の支えとなる場所なんだと学びました。
 今回、2つのお寺が避難所として活躍する中で、「備え」って大事だなと感じました。 人が集まることを想定しての備えです。色々な人が押し寄せてくる避難所です。住職は覚悟が出来ているかもしれません。でも、そのご家族はどうなのでしょうか。たくさんの人が避難してきて、家族が精神的に参ってしまったケースもあります。地域に根差す寺院のあり方、お寺が地域の中でどんな存在なのか。お寺として、受け入れられない部分があるのなら、きちんと受け入れられない事を示す必要があると思います。こういう大災害の時、檀家だけでなく、地域の住民との日ごろからの関わり方が重要だと感じました。敷居の高い存在であってはいけないと思いました。生意気な言い方をしたかもしれませんが、被災地の中で感じた率直な寺院の在り方についての意見です。

6.自分の命は自分で守る
 地震の次の日の事です。保育園に通っていた下の子です。もう死んでしまったと覚悟していた子が、生きていました。『あぁ、生きてたんだぁ』と思いました。地震以後、私はデイサービスの利用者さんと一緒でしたが、お許しをいただいて、ちょっとだけ会いに行ってきました。大きな体育館の中で、500人以上の大勢いる中で、グーグーと大の字になって寝ていました。多くの皆さんに見守られながら、スヤスヤと寝ていました。我が子の死を受け入れてしまった罪悪感と命が繋がったという感謝を、親として反省しました。
 「津波が来たら、家に大事なものがあっても、取りに戻らない」。震災を経験した人の言葉です。今回、家に忘れ物をして、家に戻って亡くなった人が沢山います。その大事なものが親だとしても、戻るべきではないと。お婆さんを助けに戻った孫が、お婆さんと一緒に流されました。親を助けに戻って、親と一緒に流された人がいます。車を取りに戻った人も、車と一緒に流されてしまいました。貯金通帳を取りに戻った人も帰ってきませんでした。
復興に向けて歩みゆく人々
 私は子供たちを愛しています。でも、愛だけでは人の命は救えません。想いだけでは人の命は救えないのです。私は、震災後すぐに子供の所に駆け寄ることが出来ませんでした。「自分の命は自分で守る」。「守る」という事は「生きるすべ」を伝えるという事です。愛だけでは子供の命は救えない。だからこそ、子供には生きるすべを教えるべきだと思います。以前からのその教訓が生かされていないのではないか。子供たちのために、この体験を風化させてはいけない。
 先日、女川町に駅が完成しました。もともと駅があったのですが、流されてしまったので、このほど終着駅が完成しました。もう女川に戻りたくないという人もいます。でも私は、皆さんのお力をお借りして、女川の復興の為に努力して行こうと思います。
 朝「行ってきます」と出掛けた家族が、「ただ今」と帰ってくることが、当たり前ではない。生きていることは当たり前ではありません。大きな力で生かされているのです。ご清聴ありがとうございました。
以上 (文責:今田忠彰)
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  編集後記 
ニュース第20号をお届けします。今回は平成27年度総会について報告しました。
NVNウェブサイトに、いろいろな資料を掲載してあります。ご利用下さい。
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