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日蓮宗新聞 平成24年9月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
95 
 悲 嘆 まる20

結ばれる かけがえのない絆

 ちりしはなをちしこのみもさきむすぶなどかは人の返らざるらむ
 こぞもうくことしもつらき月日かなおもひはいつもはれぬものゆへ
 この歌は日蓮聖人が五十八歳の折、身延山より持妙尼へ与えられた御消息(書簡)の結びにしるされたものです。若き日の日蓮聖人が比叡山修学中、京の冷泉に居をかまえていた藤原定家の子息で歌道師範のたたた匹あるいは為家の側室で「十六夜[いざよい]日記」を著した阿仏尼に和歌を学ばれたという伝承があります。今回から数々の御消息より、死別の悲嘆に寄せた心あたたまるご教示を拝したいと思います。
 日蓮聖人は一宗を開かれた祖師方の中で抜きんでて多くの消息文をしたためておられます。悲嘆に沈む弟子や信徒はどんなにか慰められ、励まされたことでしょう。書状は喜びや悲しみの涙とともに、幾度も幾度も読み返され、大切にされたと考えられます。
 持妙尼は富士山麓、駿河の賀島[かしま]の庄を領有していた高橋六郎兵衛[ひょうえ]入道[にゅうどう]の妻。入道は一般的に在家のままで剃髪して出家の姿となること。持妙尼の母と六老僧日興上人の母とは姉妹で上人の叔母にあたります。夫の入道が死去して持妙尼となり、富士郡久保村(窪)に住していたので「窪の尼」「窪の持妙尼」と呼ばれていました。日蓮聖人より賜った七通の御消息が残されており、これらによれば持妙尼は折々に身延山へ供養の品々を送り届けています。この書状も夫の追善供養の僧膳料[そうぜんりょう]に対する感謝の礼状です。
 御消息は「入道殿の命日がきたのですね。諸事にまぎれ忘れていましたが、あなたは決して忘れることはないでしょう」という書き出しで始まります。中国の三組の夫婦とわが国の松浦佐夜姫の故事を記し、夫婦の別離ほどつらく悲しいものはないとしています。
 冒頭の和歌は「散った花もまた咲き、落ちた果[このみ]も再び実を結ぶのに、どうして亡くなった人は帰らないのでしょうか」「去年もそして今年も、辛い月日は続くばかり、悲しみに閉ざされ晴れる間もありません」という意味合いです。日蓮聖人は持妙尼の心に寄り添い推し量ってこのように詠じられました。
 この御消息の翌年に佐渡の阿仏房の妻、千日尼へ与えられた『千日尼御返事』があります。夫の阿仏房を亡くした尼に同様な感懐をしるされて、
 「ちりし花も又さきぬ。をちし菓[このみ]も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞ(去年)のごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本[もと]のごとくなかるらむ。月は入りて又いでぬ。雲はきへて又来[きた]る。この人の出[い]でてかへらぬ事こそ、天もうらめしく、地もなげかしく侯へとこそをぼすらめ」と、ねんごろな言葉をかけられています。
 グリーフ・ケアの研究では、死別の激しい悲痛の後に寂寥感と孤独感にさいなまれ、やがて虚脱感と重なり、頭上に雲が覆っているような憂鬱な気分におそわれるといいます。うつの文字は二十九画の難字。鬱鬱は@草木の盛んに茂るさま。A心がふさいで楽しくなく、気分の晴々しないさま。鬱塞[うっそく]は気分がこもってふさぎこむことをいいます。
 夫婦は喜びや悲しみを共有するかけがえのない絆に結ぼれています。死がその二人を分かつ悲痛は生木を裂かれる思いだといわれています。日蓮聖人は『持妙尼御返事』において、夫婦の別れについて「いにしへよりいまにいたるまで、をやこのわかれ、主従のわかれ、いづれかつらからざる。されどもおとこをんなのわかれほど、たとへなかりけるはなし」と綴られるのでした。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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