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日蓮宗新聞 平成24年8月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
94 
 悲 嘆 まる19

生死の境を越え
歌が結んだふたりの絆

 この八月十二日に三回忌を迎えた歌人がいます。河野裕子(かわのゆうこ・本名永田裕子)さん。お会いする機会はありませんでしたが、日刊紙の歌壇の選者をされて二十年余親しんできました。私は父が俳句を好んだ影響で短詩型の文芸に関心をもっていました。朝刊で河野さんの訃報を知ったとき思わず「あっ」と声が出たのを覚えています。歌人の死が及ぼした悲嘆に心を向けてみます。
 河野さんは乳ガンの手術後八年にして転移・再発があり、二年前の夏、六十四歳で他界。夫の永田和宏氏は細胞学者で歌人としても知られ、夫妻ともども宮中の歌会始の選者、長男、長女も歌人という一家です。
 河野さんは京都女子大在学中に歌壇の芥川賞といわれる角川短歌賞でデビュー、口語体を巧みにとり入れた相聞歌[そうもんか]をものにされ、戦後歌人の第一人者として存在感を示し続けてきました。永田氏の講演をNHKラジオでお聞きしました。
 相聞歌はあいぎこえとも読み、男女間の思慕の情、恋の歌です。結婚後の四十年間で互いを思って詠んだ歌の数は、夫は四百五十首、妻は五百首を超えています。「一番大事なこと、夫婦が感じていた深い思いは歌の中に残っていた、日常生活で恥しくて言えないことも歌でなら言える、これが夫婦円満の秘訣かと思われる」と話します。
 河野さんは在宅で家族の看護を受けながら、歌作を続けました。手を伸ばせば届くティッシュの箱、薬袋などにも書きとどめ、ペンが持てなくなると口述筆記で歌を残されました。
  一日に何度も笑う笑い顔と笑い声を残すため長生さして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
 夫として残される悲嘆を述べたくだりが印象的です。やがて訪れるであろう別れの悲しみを先取りして(予期悲嘆という)、
 「にわかに妻との時間が抜き差しならない切実なものとして心を占め始めた、一日一日をできるだけ一緒に楽しく過ごしたいと願う。しかし、楽しければ楽しいだけそのことによって減っていく時間はいっそう切実に惜しまれるのである」
  一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間もうすぐ夏至だ
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
 河野さん死の前日、最後の一首
  手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
 やがてその怖れていた日が訪れます。河野さんは家族に見守られ歌人としての生涯を全うされたのです。妻を亡くした悲しみを
 「歌を残せるのは何ものにも替え難い財産だと思ってきた。しかし、残された連れあいの歌を読むのは、また何ものにも替え難いせつなさと悲しみ以外の何ものでもないと知って愕然とする」と。
 挽歌[ばんか]は中国で葬送の際に柩車[きゅうしゃ]を挽[ひ]く者がうたった歌であり、死者を哀悼する詩歌、哀傷歌のことをいいます。瞑目した次の日の朝、
  おはやうとわれらめざめてもう二度と目を開くなき君を囲めり
お母さん笑っているよと紅がいふ笑っておいでとまた髪を撫[な]ず
(紅は長女の名)
たったひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光
時間が癒してくれると人は言う嫌なのだ時間が君を遠ざけること
 「日にち薬」という時の流れにさえ、愛する者が遠ざかるとする感性に、グリーフの心理が単純でないと気づかせていただきました。
 生と死の境を越え歌が結ぶふたりの絆、短歌史に永くその名をとどめることでしょう。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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