日蓮宗 ビハーラ・ネットワーク
 
HOME > TOP > お知らせ > 関連記事 > 日蓮宗新聞より
(日蓮宗新聞 平成24年3月20日号) 記事 ←前次→

NVNトップメニュー
NVNについて
ビハーラ活動とは
NVNニュース
ビハーラ活動講習会
ビハーラグッズ
心といのちの講座
お知らせ
 関連記事
  日蓮宗新聞より
 レポート

会員限定
日蓮宗新聞 平成24年3月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
89 
 悲 嘆 まる14

内に秘められた生き生き
とした部分に気づいて

港呑[の]み車弄[もてあそ]び家を人を 襲い続ける津波は今も
大下一真
 震災から日も浅い頃でした。小学生の女の子にマイクを向けたアナウンサーが「いま欲しいものは何?」と聞くと、「タイムマシン!」。時の流れを越え過去や未来に行くという架空の機械です。「あの日に返ってみんなに、津波が来るよう、津波が来るようと叫んで知らせてあげたい」と。思わず熱いものがこみあげたことを覚えています。
 大震災から一周年、三月十一日午後二時四十六分。寺の近くに住む津波で息子を亡くした母親と供養の鐘を打ち鳴らし一周忌を営みました。皆さんもあらためて被災地に思いを寄せ、お題目による追悼と復興の祈りを捧げられたことでしょう。
 前回よりグリーフケア研修会(仙台)における東京福祉大学・大学院教授、悲嘆学研究所所長、鈴木康明先生の講演要旨をご紹介しています。被災地に通い詰めグリーフケアに取り組む先生の視点に学びます。
 遺族には二つの意味があります。一つは「災害や事故などをくぐり抜け生存した人」です。
 周りから「あなただけでも助かってよかった」と言われても「一緒に死にたかった」と考えてしまう。この感情は私たちのわかり得ない部分です。肋かって、くぐり抜けた意味を考える必然があると思われます。
 二つには「奪われた家族」という意味。私たちは何のためにいま、ここに存在しているのでしょうか。やはり誰か大切な人のためだと思うのです。もしその方が奪われたとすれば、人が奪われただけではありません。生きていく希望も、意味も、自分の立つ場も、何もかもすべてを失うのです。もう生きていくことさえイヤだという思いに、私たちは心を寄せていくべきでしょう。
 遺族に伝えたいこと。一つに「未曾有の出来事でした。起きたことが尋常ではなかったのです。いつまでも悲しいことは変ではありません。悲しい体験のあとは心身が変化したり動揺するのは当り前です」
 二つには「どうなってもいいなどとヤケを起さないでいただきたい。仕方のない部分もあるでしょうが、混乱し、投げやりになっているとき、重要な事柄を決めてはなりません。たとえば学校をやめる、離婚するなど、いま決断すべきときではありません」
 三つには「周囲はあなたが思う以上に支えたいと考えていますが、どうしてよいかわかりません。何でも言ってほしい。できないかもしれませんが決してひとりでかかえこまないでください、話してください」
 四つには「悲しみ、苦しみで一杯でしょうがそれはあなたの一部なのです。このことを教えてくれたのは芥川賞作家の故・重兼芳子さんです。『たしかにドクターの前に立てば一ガン患者にすぎません、しかしガンは私の一部、それ以外は皆さんとまったく同じ』と言い切られました。彼女の遺志を受け継ごうではありませんか。悲しみはあなたの一部、もっと健康で生き生きとした部分があるはずです。私なりにこの願いを込め生活を立て直しましょうと話しております。しっかり食べて眠ること。規則的な生活を心掛けてください」
 五つには「気晴らしや趣味はどうでもいいと思っていませんか。内に秘められている生き生きとした部分、それに気づいていただきたいのです。そのためには人間に対する信頼感がなければなりません。人間には必ず回復力、治癒力があり、自らを肯定できる自尊感情を持っています。そこを活性化していくことを考えましょう」
 この遺族に呼びかける項目は災害時だけでなく、死別の悲しみに共通する対処法として示唆を与えてくれます。
(次回へつづく)
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
この頁の先頭へ▲