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日蓮宗新聞 平成23年4月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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78 | |
悲 嘆
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死別の悲しみを乗り越え
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心豊かな思い出とするために…
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はらからの生死は知らず寒牡丹 暉峻康隆
これは阪神大震災の句。想像を絶する大津波がすべてを押し流し、一輪の花も見えない東日本の被災地。累々と浜へ続く瓦礫の山に向かって、母を呼び続ける少女の姿に涙が溢れました。犠牲者を悼む遺された者の悲嘆は、いつになったら癒されることでしょう。
惨状を伝える取材のマイクに『私にはがんばれ、がんばれの声が苦痛です』という中年婦人の訴えがありました。住まいばかりか、かけがえのない家族まで、すべてを失った心の内はいかばかりでしょう。阪神の被災者が「さあやるぞ」の気概を待つまでには、相当の時間を要したと手記にありました。これも悲嘆(グリーフ)の側面です。
かつての生活に復帰する日が訪れても、失われた命の復興はありえません。心からの哀悼とお見舞を申し上げます。宗徒としてできる限りの支援を行いましょう。
さて前回に続く悲嘆の過程【第二段階】の残りを綴ります。
◆罪の意識
原因の追及や怒りが内に向けられると、後悔や罪悪感となって自分を責めることになります。
「○○すれば助かったかもしれない」「なぜ○○してしまったのか」と自分の言動を悔んで悶々と過すこともあります。罪悪感にとらわれるときは心からのお題目を手向けましょう。安らぐ思いが届けられるはずです。
説教や指示は避け、罪責の思いを充分聞き入れることが周囲の役目。なお悲嘆の罪責感は倫理的というより情緒的なものとされます。
◆泣くこと
「家内が亡くなってから恥ずかしい話ですが涙が止まらないのです。(五十代・男性)」
大切な人を亡くしたことにより、涙は心の痛みとともにもたらされます。人前で泣くことは男にとり弱みをさらし、恥ずかしいこと。女にとってもみっともない、はしたないことと見られがち。しかし泣けるとき、泣きたいときは悲しみを抑えこまないことです。まわりの者は安心して泣ける場所や時間を与えること。泣くことが許され涙とともに様々な思いを洗い流しましょう。
悲しみを癒すには感情を表に出す過程がなくてはなりません。まさに葬儀や寺院など宗教施設は安心して泣ける場なのです。涙を流すことは人としての証、涙については後日に一項を設けます。
◆幻視・幻聴
おばあさまが居間から廊下に出ると、おじいさまが奥にある自分らの部屋に入る姿が見えました。家族に話すと息子から「もういるわけねえだろう」と一笑にふされたというのです。しかし、おばあさまには見えたのです。恐れよりは親しみを感じることが多いといいます。親しい者には見え、聞こえ、感じるのであり、周囲は一概に否定しない方がよいとされます。このことを知り、おばあさまには、後姿でも会えてよかったねと応じると、うれしそうにうなずいてくれました。この時期は死別した人のことばかり考え続け、頭から離れることがありません。その面影を追って、死者を探す心の働きを[探索行動]と呼びます。
オフィス街にあるスクランブルの交差点。帰宅ラッシュの人込みを行く若い女性の後姿が、髪型といい、体格といい、服装までもが亡き娘にそっくり、いつしか足はその後に従っていました。いつもと違う駅から、わが家に戻ることになった父親の述懐です。こうした行動は少しも異常なことではなく、また長く続くことはありません。
第二段階では激しい感情の起伏と変化を、自由にあるがままに表現することを許し、周りは聞き役となりその気持を受け入れてあげます。
死別の悲しみを癒す目的の一つは、亡くなった人を幸せな気持で思い出せるようになること。思い出すのが辛い時も供養のお題目を続けたいものです。心豊かな思い出は明日へ向け生きる力になり、遺された者の支えとなるのです。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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