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日蓮宗新聞 平成23年3月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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77 | |
悲 嘆
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亡き人へのお題目の功徳で
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遺された者も安らぎを得る
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人ひとり減ったわが家の寒さかな 渡辺蓮夫
あわただしく気を張って臨んだ葬儀が一段落し、親族が帰路についた後に、本当の悲しみがやってきます。次第に日常の生活に戻っていくものの、亡くなった人の不在をいやが上にも実感せざるを得なくなります。
「夕方がくると辛くて」という遺[のこ]された妻がいました。夫がまだ会社からいつもと同じように帰宅する気持ちでいます。しかし防犯のため夕闇が迫る頃には、玄関のドアの錠を下[おろ]さなくてはなりません。そのカシャッという施錠の音に「あぁもう帰ってこないのだ」と思い知らされるというのです。
「まだ信じられない」[いつか戻ってくる]といつまでも思っておれなくなります。(死の)事実を受け入れざるを得なくなります。
今回は前回お話しした悲嘆の過程【第一段階・ショック】に続いて、第二段階について述べたいと思います。
【第二段階・喪失に気づく】
ここでは激情・葛藤・怒り・虚脱感・孤独感・憂うつ・泣くこと・不眠・食欲不振・自己憐憫・幻視・幻聴などの心身の反応が表れます。この第二段階から次の第三段階までは比較的長く続くといわれています。
◆怒り
初期のうちに悲しみが怒りの形で表れ、攻撃的となり気持ちがイライラします。医原関係者には手当が適切でなかったと、また親類や友人に対しては自分の気持ちをわかってくれないと思いがちです。「私だけがなぜこんなことになったのか」と無関係の人や故人に対してまでも怒りを示します。篤信者の場合は神や仏をうらみ、普段の振舞いや人柄からは想像できない言動として目にうつります。これらはいずれも正常な反応です。周囲の者は憤[いきどお]りを吐き出すことをみとめ、言い争うことなく、その気持ちを受け止めましょう。
◆寂しさと孤独感
連れ合いを亡くし、寝室でひとり床につくさびしさにとまどう人は少なくありません。
「夫逝きて寝間の広さや夜鷹啼く」の一句は体験者にとって身に沁みることでしょう。
友人、近隣から(死別について)声をかけられたくない思いと、何も言われないのも嫌という矛盾した感情を持ちます。また人が自分を避けるように見えたり、そう思い込み、自ら心を閉ざし孤立させてしまうこともあります。
周囲の対応としては、できるだけ独りにさせないこと。案じている、見守っていることを伝えて安心感を与えます。あまり干渉しない方がよいといわれています。
◆憂うつ・虚脱感
頭の上を幾重にも雲が覆[おお]いかぶさっている気分。何も手がつかなく、些細なことも面倒でやる気にならない、物事に集中できず、何とかしたいと思うもののどうにもならない状態。だらしなくなったように見られがちで、気力がみなぎるまでは相当の時間がかかります。
周囲の「しっかりして」「頑張れ」という善意の呼びかけは、かえって辛さを増幅させてしまいます。頑張らなければと、承知しながら体がついてこない状態。勇気づけるつもりが逆に苫しめる結果になりかねません。
悲しみを共にしながら時には涙を流して、その人を引きあげていくような思い。悲しみの心に寄り添い見守ることが大切です。貝の蓋があくのを待つ、時がくるのを待ってあげるのも必要なことです。
「悲慨泣歎[ひがいりゅうたん]」(かなしみなげく)という仏教用語があります。身近な者との死別は、心に多くの痛みをもたらします。それは避けることのできない誰もが通る道です。しかし亡き人のために朝タ唱えるお題目には、遺された者も安らぎを得る功徳があり、それは悲嘆を癒す道につながっていくものです。幸いなことに私たちはお題目という自他共々に救われる縁に結ばれています。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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