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日蓮宗新聞 平成23年2月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
76 
 悲 嘆 まる1

釈尊の慈しみを感じれば、
安らぎに包まれる日がくる

 私たちにとってできれば避けて通りたい事柄は少なくありません。身近な者との死別もその一つ。死はある日突然訪れるもの、ある程度覚悟ができていた場合でさえ関係者には唐突に感じられるものです。愛情と信頼に結ばれた絆が強いほど、その人の死によって激しい衝撃に見舞われ、悲しみと嘆きに打ちのめされます。
 死別の悲嘆は死の直後に始まるとは限りません。闘病のさなか余命告知を受けたときなど、周囲は別れの悲しみを先取りして呻吟[しんぎん]します。これを「予期悲嘆」と称し、ことが起こる前から先を見通し、推しはかって悲しむのです。これにより死に直面した衝撃を幾分か和らげることになると考えられています。
 死別体験を語って互いにその思いを分かち合う集会でのことです。夫が急逝し悲しみに打ち沈む女性が、「あなたはひと月も傍にいてあげることができたのよ、私はありがとうの一言も言えなかったのよ]と、看取りができた一方に語りかけたことがありました。しかし、迫りくる別れを予見し最愛の夫に寄り添う辛さも、また筆舌につくせぬものがあり、決して比較できることではありません。親しい身内に通知する場合、先に重篤、危篤と伝えた後に逝去を知らせることも、衝撃を和らげる配慮でしょう。
 人は愛する者との死別により複雑な心理的、身体的な動きを見せますが、多くは病的なものというより、人として当然の反応とされています。死別体験はその後の周囲との関係や生き方に強い影響を与えることになります。
 近年は精神医学の分野で悲嘆(グリーフ)の臨床研究が行われ、悲しみの表れ方や対処の方法が広く知られるようになりました。その一部を紹介してまいりましょう。
 悲嘆のプロセスは、おおよそ五つに区切る過程で説明されています。
 【第一段階・ショック】死の事実が信じられない、把握できないという呆然自失の無感覚状態。現実逃避、困惑、混乱をきたします。訃報を聞いて「頭の中が真っ白になった」「しばらくは自分が何をしているかわからなかった」「気がつくと受話器を持ったまま、その場に座り込んでいた」という状況。ここを切り抜け、こうしてはいられないと準備や連絡を手際よく処理し、その冷静さに自分で驚いたという人もいます。いわゆる「気が張っている」状態。それでいて後日振り返ってみても、取り込み中の出来事を思い出せない人も少なくありません。この状態は比較的早く通り過ぎていきます。
 周囲が配慮することは、混乱を許す時間的余裕を与える。てきぱきと動く様子が「案外しっかりしている、大丈夫」だという印象でも、ただロボットのように動いているだけと理解してほしいこと。死別の直後は生理的欲求を満たし、安全を配慮し、健康を気遣って、心身ともに守っていくこと。なお予期せぬ場面(後追い自殺など)も想定し、細心の注意が必要な場合もあると専門家は指摘しています。
 日蓮聖人は上野殿後家尼御前よりその子五郎(十六歳)の死を知らされます。三ヶ月前に身延の草庵で面会したばかり。人は死するものと誰もが知り、嘆いたり驚くことはないと教えてはいるものの「時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく侯。」と、その死に驚き、受け入れがたいと心の内を述べておられます。
 死別の衝撃が一段落すると、やがて様々な感情に翻弄されることになります。悲嘆によって生ずる悩み悶える様は、法華経譬喩品に説かれる「諸の衆生を見るに生・老・病・死・憂悲・苦悩に焼煮せられ」という経文そのままです。[火宅]を離れて安らかに座[ましま]す釈尊の眼から見れば、私たちは「幼童」にすぎません。悲しみに打ちひしがれるときも、本仏釈尊の慈しみの目差しを背[せな]に感じることができれば案ずることはありません。必ず安らぎに包まれる日が訪れます。いかなるときもお題目を身と心から離さず持ち続けたいものです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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