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日蓮宗新聞 平成23年1月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
75 
 弔 う まる12

一切を救うお題目を唱え    
        亡き人の成仏を確信

 電話口に出ると突然の訃報です。「エッ、どうしたの」と尋ねると先方は口ごもってしまう。ややあって、いま検死が済んだところですの一言に、およその推測をすることになります。枕経に伺うと重苦しい雰囲気がただよい、家族、縁者はおしなべて寡黙です。自死の葬儀に直面すると、少なからぬ非力、無力感を覚え、教化の力及ばずと恥じ入る思いがよぎります。
 自死(自殺)はいま個人レベルを越えたものになっています。社会構造の欠陥、雇用や経済、うつ病など時代背景をともなう複合した要因があり、いちがいに当事者やその周辺を責められません。そうはいうものの遺族は比較にならないほどの堪えがたい苦しみにあえぎ、苛[さいな]まれています。自死を告げられず死因を偽ることもあります。
 自死は多くの場合、異常な死、身勝手な死、汚名とみなされ、非難、差別の対象として、さげすみの眼がそそがれます。遺族は社会の誤解や偏見から冷たい視線にさらされ、生きづらい思いで、息をひそめるように日々を送っています。衝撃的な突然の別れは、大きな驚きと悲嘆をもたらし心の傷ともなります。自責の念は強く、悲しみを内に封印し、苦しみの期間は長く尾を引くものです。遺族は周囲の心ない言葉に傷つきます。なぜ気づかなかったのかと、配慮の不足を責められ、また家族が追い詰めたかのような物言いに苦しみます。遺族は安心して悲しむことができず心を閉ざしがちです。
 遺族にとっては、あるがままの自分が無条件に受け入れられ、安心して涙を流し、悲しみを表出できることが必要なのです。また「あなたには非がない」「あなたが悪いわけではない]の言葉に癒されています。
 不幸にして自死した者は、決して弱い人間ではありません。精一杯生き抜いた人なのです。自らの意志ではなく、社会的要因や心の病により追い込まれ、やむをえず自[おの]ずから死に逝[おもむ]いたのです。このような理解から「自死」という言葉が用いられるようになりました。
 「自殺した者は成仏できないと聞いたが本当か」。初七日を過ぎた頃の深夜、眠れないと訴えて電話をよこした檀徒がいました。私は「そのような心配はいらない。お題目がある。お題目を唱えましょう」と応えたものです。
 法華経は誰もが必ず成仏できることを巧みな比喩[ひゆ](たとえ)をもって随所で説き示し、一切衆生ことごとく成仏できる教え「一仏乗[いちぶつじょう](一乗とも)」を明らかにしていきます。そして法華経・お題目に結縁された者は救いが約束され、一つの例外もありません。「皆成仏道[かいじょうぶつどう](みな仏道を成ず)」と示される通りです。
 「能[よ]く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死[しょうじ]の縛[ばく]を解かしめたもう(薬王菩薩本事品)」と。縛とは繋縛[けばく]。煩悩・妄想あるいは外界のものにしばられ自白を失っているさまをいいます。法華経は苦海にもがき沈むような人にこそあるもの。しかも釈尊滅後(亡くなられた後)の私たちの救いに主眼がおかれ、「諸経の王」たる所以[ゆえん](いわれ)になっています。
 このように信受し、お題目を唱え唱える功徳を逝きし者にふりむけ、その成仏を扶[たす]けることにより、遺された者は見失った生きる力をとり戻し、蘇[よみがえ]るのです。私は自死の追善供養には、読経よりお題目を多く唱えます。遺族の方々と二十分、三十分真剣に行じます。亡き人が救われることなく、生者に安らぎが訪れるものでしょうか。成仏の糧[かて]はお題目の外[ほか]に何かあるでしょうか。お題目の上はお題目があるのみ。日蓮聖人の慈愛に満ちた「お題目を唱えまいらせてまいらせ」(持妙尼御前御返事)の呼びかけが聞こえます。
 亡き人の成仏が確信できるお題目をお唱えください。周囲の方は助題目[すけだいもく]をもって支えてください。お題目の弔い(供養)によって悲しみの向うに安らぎの地平が開き、必ず光が射してくると信ずるものです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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