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日蓮宗新聞 平成22年10月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
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 弔 う まる9

弔うことで安らぎに導かれる──

 夢のごと一人身となり目刺し焼く  小川辰也
 亡き妻のたたみし枡目更衣     中林善也
 仏壇の妻に味問う雑煮かな     石川賢吾
 夫婦の別れを大別すると、夫に先立たれる妻はおよそ八割、夫の方が後に残る事例が二割になります。「女房が先に逝くとは思わなかった、まさかこんなことになるとは…」と打ち明けられたことがしばしばあります。年若く妻を亡くすと子供の養育は猶予がありません。江戸川柳[せんりゅう]の乳呑み児を抱えた男の悲痛な叫び、「南無カカア乳を飲ませに化けて来い」が心に浮かびます。家事と職場の両立は困難をきたし、多くは子等の祖父母に支援を願うことになります。
 中高年、ことに夫婦二人で暮してきた場合、どうやって生きていけばよいのか呆然と立ち尽くした、深い喪失恋に押しつぶされそうだったという訴えがあります。心の支えを失い、生きる気力を亡くすことさえあります。家事をすべて妻に委ねてきた場合、台所に入っても、どこに何かあるかわからない、日常生活が立ち行かなくなることもあります。また不眠、食欲不振など身心への影響も少なくありません。
 悲しみを酒でまぎらし生活が乱れたり、また悲しみを忘れるためにあえて仕事に没頭し、その反動で体調を崩すこともあります。
 一般的に男性の方が死別からの回復に時間を要し、立ち直るきっかけをつかみかねています。前へ進もうという一歩がなかなかでない、何とかしなければと、くじけそうな心を奮い立たせている様子がうかがわれます。
 悲嘆の胸の内を話せば幾分か楽になるのでしょうが、それもできない場合があるようです。死別の悲しみを封印することはよくないといわれています。日本には男は強くあるもの、涙を見せることはみっともないという根強い社会通念があります。しかし涙をぬぐい、弱味を語るときがあってもよいのです。気分が落ち込み、閉じこもるのはエネルギーを蓄えるときであり、これが伏線となり、新たな人生の展開に結びつくといわれています。
 曰蓮聖人は「や(矢)のはしることは弓のちから、くものゆくことはりう(龍)のちから、をとこのしわざは女(め)のちからなり(富木尼御前御書[ときあまごぜんごしょ])と示されていますが、夫はあらためて妻の存在、その陰の力に支えられてきたことを知るのです。亡き妻と出会い、寄り添い、人生を共にできた幸せに心が向くとき、また一歩高みに昇ることができるでしょう。
 妻を亡くした方の仏壇を拝すると、多くの場合生前の写真が飾られています。テレビドラマでも遺影[いえい]に向って語りかける場面がありますが、ごく自然な形と思われます。しかし、その奥に坐[ましま]す御本尊[ごほんぞん]の存在を忘れがちです。亡き妻に代わり法味[ほうみ](読経[どきょう]・唱題[しょうだい])を供えましょう。お題目を唱え先に逝った者、また遺された者も御本尊(本仏[ほんぶつ])の手の内、慈愛の光の中にあることを感得[かんとく]して、生きる力がよみがえることでしょう。「妙とは蘇生[そせい]の義なり」で法華信仰には不思議な力があります。
 死別の悲しみを支えるグリーフケアの専門家は「宗教があれば死についての考え方や死の意味について、信仰のない人に比べて相違する何かを持ち、悲しみに対処する力を得ることができる」と指摘しています。
 信州の年輩者は「生き役」(生きている者の務め)という言葉を使います。「弔う」ことは愛する人を見送った者の大事な役目です。お題目によって供養される側も、供養する者も共に安らぎに導かれます。先に逝った妻が後に遺した夫のことを案じないはずはありません。遺された夫がお題目を杖として強く生きる様は、亡き妻の安らぎにつながります。法華信仰による弔う形と心を大切にしていきたいものです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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