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日蓮宗新聞 平成22年11月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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73 | |
弔 う
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我が子の死は悲しみの極み
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親なればこそ 亡き子に導かれ
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近づきてうつむきつづく母の手に子の拾骨の箸持たすわれ 辻井康祐
先程までは生前の面立ちを留めていた亡骸が、荼毘[だび](パーリ語の焚焼=火葬)に付され、白骨となり眼前に横たわる様は覚悟をしていても衝撃です。否応なしに無常というものを突きつけられる瞬間です。
ましてや親が我が子を失うことは悲しみの極み。自らの棺を荷[に]なうはずの子に先立たれる逆縁[ぎゃくえん]の悲嘆は限りなく深く、そして重いものです。
日蓮聖人は「子にすぎたる財[たから]なし(『千日尼御返事』)」と述べ、子はお題目を相続・継承する故に財であるとされました。子は親にとって未来を託すもの、その無二の財を失うことは未来を喪失することです。子を亡くした悲しみは容易に癒されるものではありません。
葬儀が一段落すれば日常の暮しにもどるものの、我が子の不在という事実をいやがうえにも実感することになります。その現実は受け入れがたく、悲嘆の中でとまどいを覚えながら時は過ぎていきます。子を失う悲しみ。親はその死を乗り越え、また忘れたりすることはできないものです。
私の四人の兄や姉は、いずれも私が生まれる前に亡くなり、次兄は四歳の病没でした。障子に悪戯し指で穴を開けて逝きました。母はその一隅を張替えることができず、何年か後に古びた紙をやっとの思いで取り除いたといいます。介護の床でも、兄や姉の話をするたびに、しわがれた手を合わせお題目で弔っていました。
サトーハチローの次の詩は子を亡くした親の思いが伝わってきます。
「あの子の残した上着には」
あの子の残した上着には/あの子の匂いがついている/あの子の残した手袋に/風の匂いがしみている/あの子のすわった古椅子に/あの子の帽子をのせてみる
西田哲学と呼ばれ近代日本の思想に大きな影響を及ぼした哲学者、西田幾多郎博士は、十四歳のお嬢さんを亡くしています。
「子を喪った人はあなただけではない。悲しんでいる人は大勢いるのだから、諦めなさいよ、忘れなさいよ。といってくれる人がいるが、これは親にとって耐えがたいことである。せめて自分だけは一生思い出してやりたい、というのが親の心である。この悲しみは苦痛といえば苦痛だが、しかし親はこの苦痛がなくなるのを望まない」と綴っています。
南条氏は駿河の上野郷を領有し北条氏に仕えていた有力信徒。日蓮聖人は土地の名をとられ上野殿と呼んでいますが、度々身延へ供養の品々を送り届け日蓮聖人の生活を支えられました。上野尼(母尼・後家尼とも)の夫、南条兵衛七郎は文永二年三月に病死。母尼は懐妊中で、夫亡き後、女手で幼い子らを懸命に養育しましたが、弘安三年九月、十六歳になったその子、五郎が急逝してしまいます。
日蓮聖人は五郎と対面の機会があり、好ましい男という印象を持っていました。訃報を受け日蓮聖人は心を痛め弔慰の書状を綴られ、つぼみの花が風にしぼみ、満月がにわかに消えたようだ「書きつけるそらも覚え侯はず」と一度筆を置かれたものの、さらに慰めの言葉を探し追伸を記されました。その後も四十九日をはじめ折々に書状を認[したた]め、慰めいたわり、母尼の心に寄り添い続けました。
「悲母[ひも]我子を恋[こいし]く思[おぼし]食[め]し給いなば、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて、故南條殿・故五郎殿と一所[いっしょ]に生まれんと願わせ給へ(『上野殿母尼御前御返事』)」と、同じ妙法蓮華経の国(霊山浄土[りょうぜんじょうど])に生まれ、三人が再会する日を期して信行を重ねるようすすめています。
翌年正月に母尼へ送られた書状は「南無妙法蓮華経と申す女人の、をもう子にあわずという事はなしととかれて候ぞ。いそぎいそぎつとめさせ給へつとめさせ給へ」と結び、追善の供養をすすめ、法華経への信を深めるよう励ましています。
わが子の死を契機に信仰に目覚める方は少なくありません。親なればこそ、親なればこそ亡き子に導かれるのです。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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