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日蓮宗新聞 平成22年4月20日号
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藤塚 義誠
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 弔 う まる3

故人を思い出すことが供養の基本

 追善は仏教語大辞典に「死者の冥福のために、死者にゆかりのある生者があとから追って善事を実践すること。一般には死後七日ごとに四十九日忌までの追善、さらに百ヶ日忌・年忌など追善の供養を営む」とあります。
 供養(供給資養)は故人の霊に読経、唱題、塔婆、供物などをささげ回向すること。回向[えこう](回転趣向)とは自分の修めた善行・功徳をめぐらし、さし向けることで、亡き人の死後を資[たす]け安穏をもたらします。なお年忌は一応の定めにすぎず、志さえあればいつでも供養ができるものです。
 住職にお経をあげてもらえばそれでよしと考える人もいますが、供養も行の一つ、心をこめてお題目と法華経読誦を修し、その功徳をお供えください。そして御本尊のお力により故人の救い(成仏)があることを忘れてはなりません。故人とともに私たちもまた安らぎを得るのです。
 「弔う」とは「問う」また[訪う]ことであり、亡き人のもとを尋ねること、すなわち死者をこちら側に呼び寄せ「とむらう」のです。私たちが愛する者を追想し、心を通わせて、思いを分かち合うなかで、その死を受け容れていく。亡き人をいつまでも忘れない、思い出してあげることが供養のベース(基盤)となります。
 母の三回忌と父の七回忌。法要と墓参が一段落した会席のこと。亡き父母の弟妹、二男三女の子供夫婦に孫が加わり、一族二十余名が顔を揃えました。長兄の提案で一人ひとりが父母の思い出を述べることになりました。叔父、叔母は子供の知らない父母の若き日のエピソード(逸話)を紹介し、子はある日の父や母の姿とその言葉を語り、笑いと涙で時のたつのを忘れました。篤信だった両親の背中を見ていたに違いありません。故人を慕う思いが一つとなった力強い唱題の声が本堂に響きました。
 参列の人数が多いにもかかわらず、まことにか細いお題目で、思わず木鉦をとめ「大きな声で唱えてください、お題目の功徳が届くようしっかり唱えましょう」と促すことがあります。先ず家族が大きな声で唱えてほしいものです。法要はつけたりで、あとの飲食に重きがおかれていたり、また型通りに一応すみましたという法事は淋しいものです。
 法事はその家の信仰のリフレッシュ(回復・一新)。家の信仰から一人ひとりの信心を養う機縁となり、お題目を相続する場にもなります。法事は当主が招きますが、故人(霊位)が呼び寄せるものでしょう。また、正客は亡き人でありそれ故に杯を献ずるのです。世俗の儲け話や雑談で費やされてはなりません。ひたすら箸を動かすだけの女性もいかがなものでしょう。招かれた側としての配慮に欠けませんか。お世話になったこと、忘れられないこと、思い出の一コマを語りましょう。「気配りのある人でした」「やさしい方だった」などの一言は施主(家族)にとってひとしおうれしいもの、心がなごみ、安らぎを覚えます。これらはすべて故人の徳に帰するものでしょう。さらに仏法についての質疑は法事を一層意義深いものにします。亡き人の余香(後に残るかおり)と、そこに集う人々の心映えによって追善の仏事は営まれるものです。
 いまある幸せは、父母や先祖の「積功累徳[しゃっくるいとく]」(功を積み徳を累[かさ]ねる・法華経)」の賜物です。私たちもまた人にはよくしてあげましょう。子や孫、後の世の幸せのためにお題目の功徳を積もうではありませんか。
 信州の古老は「ホトケは四十九日まで屋根棟におる」といいます。故人が身辺にいるような心地、悲しみと嘆きは重くそして深いままです。百ヶ日の異称は「卒哭忌[そっこくき]」、天を仰ぎ地に伏して泣き叫ぶような悲しみも薄らぐといいます。川柳の一句「懐かしむ余裕でてきた三回忌」。思い出すのも辛い段階から一歩抜け出して、心がなごむ、豊かになる、力づけられるという感慨をもつようになります。初七日より年忌に至る供養、その間の初彼岸や新盆という一連の仏事は、グリーフワーク(死別の悲しみを癒す作業)を促進する役割を果たしてきました。そしてお題目は死者にも生者にも三世を貫く安心[あんじん]をもたらしてくれます。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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