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日蓮宗新聞 平成22年3月20日号
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藤塚 義誠
65 
 弔 う まる2

霊山往詣のために…

 葬儀とは「葬送儀礼」の略であり、臨終から通夜、火葬、葬儀、埋骨、追善供養に至る一連の儀式の総称で、古くから「はふり」また「とぶらい」と称しました。「葬」の文字は草むらの草と草の間に死者を置いて、自然の大地にかえすという意味があります。人類ははるかな時代からさまざまな葬法で死者を見送ってきました。
 葬儀に関して特記したいことは民俗学からの指摘です。日本人は死者に対して相反する二つの感情を持っていました。それは死者を怖れケガレを忌み嫌う一方で、死者(魂)が身辺にとどまってほしいという愛着と願望です。この矛盾を根本的に整理し、人々を納得させたものが仏教であったという点です。
 儀礼のもつ重要性を精神医学の森省二氏は「(死という)事実を事実として認め、感情を整理し得る象徴的な行為とは儀式である。すべての儀式は古い世界に別れを告げて新しい世界へと旅立つこと、言い換えれば、人生における移り変わり、あるいは節目を意味する。儀式は過去(古い心)から未来(新しい心)へと移り変わる心を整理する。ユングの言葉を借りれば『死と再生』の営みである」と解説しています。
 葬儀は遺された人々が愛する者の死と向き合って、生きることの本質をみつめる場です。また日常の感覚でとらえられない時間・空間を超えた永遠の生命、次なる世界の存在、宗数的次元へ心を向ける機会となります。そしていずれの宗教も死者に対する深い配慮がはらわれ、悲しみと嘆きに打ちひしがれた心に安らぎを届けてきました。
 日蓮宗の葬儀は導師の引導により「霊山浄土[りょうぜんじょうど]」へ赴く道筋と安心[あんじん]が示されます。引導は「誘引開導」の略。人々を導いて仏の教えに導き入れることをいいます。法華経には「衆生を引導して諸の著[じゃく](執着)を離れしむ」「諸の衆生を引導してこれを集めて法を聴かしめん」とあり、釈尊が人々を導くのは「仏道に入らしめん」がためです。したがって引導される者は、死者に限らず生者もまた同じであることを忘れてはなりません。
 引導は生死無常を説き、愛する者を失った遺族の悲しみに共感し、法華経との値遇[ちぐう](出会い)を悦び、故人の人柄や業績、信仰などを讃えて死者を追想します。さらに仏・菩薩の手に導かれ、霊山浄土へ迎え入れられることを証[あか]します。
 お題目を唱える日蓮聖人の門下・檀信徒は、霊山浄土へ導かれ、本仏釈尊を拝することになり、これを[霊山往詣[りょうぜんおうけい]]といいます。「いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上[りょうぜんえじょう]にまひりあひ侯はん」(千日尼御前御返事)と教え示されています。
 道に迷った時を思い出してください。「この道を行きなさい」の一声に安心して歩みを進めることができたはずです。引導によって、死者の霊魂はどれほど心丈夫なことでしょう。
 導師は人々を正しい道に導く仏・菩薩の敬称。維摩経では貿易船の船長にたとえ「海導師」とあります。転じて法要を司る人を導師と呼ぶようになりました。葬儀の導師は仏・菩薩の代行者であり、また死者を永遠の世界へと送り出す案内者でもあります。住職は葬儀の場にのぞんで、威儀をととのえ、意をつくして引導作法に努めます。導師なくして誰が死者の魂を仏の世界へと導くのでしょうか。
 遺族は葬儀の場に臨み、現実を受け入れ、弔問・参列の人々と悲しみを分かち、支えを得ることができます。故人の生涯を回顧し、労苦を称え、恩恵に感謝し、その人生を意味づけます。亡き人の遺志をたしかめる場にもなります。また儀礼によって死者は遺された者の心にいつまでも存在感を与え続けます。忘れられない、忘れてはならない人の風貌を胸に刻み、悲しみを越える道ヘー歩を踏み出すのです。
 「霊山往詣」を固く信じ、疑わないところに、死者も生者も共々に絶対の安らぎを掌中に納めとることができます。これこそ法華経・お題目の功徳にほかなりません。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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