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日蓮宗新聞 平成21年11月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
61 
 臨 終 まる9

臨終の心構え
先人の書や言葉に学ぶ

 高齢社会、生と死、ターミナル・ケア等々、いのちの問題に関心が寄せられる時代に注目したい一書があります。心性院日遠上人(一五七一〜一六四二)の著と伝えられる「千代見草」です。身延山久遠寺の中興の三師(日重、日乾、日遠)の一人として江戸初期における日蓮宗を代表する碩学です。また、七面山に女人として初めて登詣を果した養珠院お万の方(徳川家康の側室)の師として知られています。
 「千代見草」は『日本思想大系』(岩波書店)の『続・日本仏教の思想五』、「近世仏教の思想」に収録されており、それは宝永七年(一七一〇)に刊行された版本に基づくものです。ただ、文献学の研究によれば、日遠上人の頃より幾分か時代が下って、日遠の名に仮託して著述されたという説があります。
 いずれにしても近世日蓮宗徒のあるべき姿、臨終に向けた信行のあり方が示されており、現代の私たちにとっても、ビハーラ活動を実践する上でのガイドライン(指針)となりうるものです。
 その序文の冒頭部分は「もみぢ葉を、風にまかせて見るよりも、はかなき命をもちながら、いつも夏山の心地して、あかしくらしぬるは、わればかりかくや」−もみじの葉が風にまかせて散るよりもはかない命を持ちながら、いつも青々と繁った夏山のような心地で毎日を過ごし暮らしているのは私だけではないでしょうーという書き出しに始まります。
 西欧には「メメント・モリ」の警句がありますが、「死を想え」「死を忘れるな」という意味で、仏教語の「無常」に相当するものです。この千代見草は一貫して人生の無常を説き、経論や日蓮聖人の御書を随所にちりばめ、お題目受持による臨終正念の意義や方法、また看病、遺体の処置、葬儀や忌日に及ぶその心構えについて教示しています。臨終の大事について幾つかを紹介いたします。
 日常の心がけとして、その第一に臨終正念の祈りをあげています。仏法僧の三宝、諸天善神に向かい他事を思わず、ひたすら法華経を読み、お題目を唱え「兼知死期 得善知識 臨終正念 証大菩提]と願いて祈ること。あらかじめ死期を知り、臨終を正念に導く善き僧にめぐりあい、臨終を正念に終えて、菩提(悟りの境地)に至る祈りをすすめています。
 第二に、我が臨終は今日この日、唯今なりと思い、ひたすらお題目を唱えなさい。「ねてもさめても、心に思ひならはしたらば、三宝の擁護とよりあひて、正念に本懐をとぐべき也」。擁護とは、かかえたすけ、まもられることです。そして臨終は今この時なりと心得れば、貪りや怒りの心が生ずることはないと。今日が人生最後の日と考えたとき、見渡す風景や家族はどのように目に映るでしょうか。
 さらに兼好法師の言葉を引いて、死後に多くのものを残すべきではない、朝夕の暮らしに無くてはならないものだけあればよしとしています。「シンプルライフ」、「手放すこと」、「とらわれからの解放」、「身辺の整理」等に思いが及びます。
 この世で手にする物質的なものは何一つ彼の世に持ち込むことはできません。命終に臨めば世俗の価値観は一変します。財産等についても「存命のうちに、ゆづる事のならむ人は、はやくゆづり状をかくべし」「何にても、心にかかる事のなきやうに、常に身をとりおくべし」と身辺の物事にきまりをつけておくべきと記しています。
 私たちは「大やう(おおよそ)人ごとに年よらねば死なぬ物ぞと思ふ也」の気持ちで暮らしていないでしょうか。「すみやかにすべき事をゆるくするあやまりとは、臨終の用意なき事也」。まさに頂門の一針です。これらは近年しきりに提唱されるデス・エデュケーション(死への準備教育)そのものです。お題目を唱える者はぜひ心に懸け、実践しておきたい心得ではないでしょうか。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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