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日蓮宗新聞 平成21年7月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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57 | |
臨 終
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お題目を唱え、迷うことなく 大きな力にすべてをゆだねる
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死にざまを考えるとは、生きることに真摯に向き合うこと
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映画「おくりびと」の原作、「納棺夫日記」を著わした作家の青木新門氏の講演をお聞きしました。氏は次のように述べています。
「現代社会は死を隠蔽[いんぺい]して、生は善、死は悪いう価値観ができあがっています。ことに丸ごと認める力が衰弱して、物事を分けて考える癖、分けて物を見る科学的合理的思考が身についています。ヒューマニズムとは人間中心主義。そこには自我があります。あらゆるものを平等に、丸ごと認めるということではありません。自分に都合のよいものはという形で、生と死を分け、死を隠蔽して生にのみ価値を求めてきたように思います」。
「私は死の瞬間にはかりしれない大きな力が働くのだと言いたいのです。次は私のつくった詩です。『人は必ず死ぬんですから いのちのバトンタッチがあるんです 先にいく人がありがとうと言えば 残る人がありがとうと応える そんなバトンタッチがあるんです 死から目をそむけている人は見そこなうかもしれませんが目と目で交わす一瞬のいのちのバトンタッチがあるんです』」。
臨終の場における死者と生者が交わす「いのちのバトンタッチ」があるということ。私たちは愛する人の死を怖れることなくしっかりと見届け、見のがすことのないよう心したいものです。
青木氏はまた「おくりびと」が原作の舞台であった富山が山形となり驚きつつも、映画の構成や俳優の演抜力等を高く評価しています。ただ「いのちのバトンタッチ」の部分が切り取られ、おくりっぱなしという感じがしたといいます。また、いしぶみという形で、生きている人間だけの心の癒し、愛別離苦の悲しみを癒すところで映画は終っています。人間愛では自分がいざ死ぬときの助けにはならないという指摘は心にとどめておきたいと思いました。
臨終のありさまは、願ったり期待していたように迎えられないものです。それほど生命というものは不測の展開をみせるものです。それでもなお安らかな最期、満ち足りた臨終を願わずにおれません。
私たちは生あるとき、死に赴くとき、いかなるときもお題目という支えをいただいています。考えてみれば何と幸せなことでしょうか。お題目は、生者死者共に臨終の助けになると確信するものです。
家族、縁者の最期に立ち合い、刻一刻と臨終が迫る時の流れに身をおけば、人事を尽くした後は、目に見えない大きな力にすべてをゆだね、おまかせするほかはありません。お題目を唱えてきた者は、心安らかに迷うことなく、すべてをおまかせできることでしょう。
日蓮聖人は『松野殿後家尼御前御返事』に、人間として生まれ、お題目と出会うことができた有難さを、法華経の「一眼の亀」(盲亀浮木[もうきふぼく]とも)の説話をもって説き示されています。
海の底に住み千年に一度だけ大海原に浮かび出る一眼の亀が、運よく漂っている浮木の穴に入ることは容易でないこと。これを人として生まれることの困難さ、さらにその人が仏の教え(お題目)に出会う、値遇することの困難さに譬えています。大海は生死に迷う苦海、亀は衆生である私たちです。
「ただ得難きは人身、値い難きは正法なり」(『聖愚問答紗』)です。
臨終を迎えるときその心に去来するものは何でしょうか。一つには人間としてこの世に生まれてきたこと。二つにはお題目にめぐりあえたという喜び。この二つを心の奥底に感ずることができれば、以って瞑すべきでしょう。
私たちは日常の折節にお題目を唱え、死にざまを考えようではありませんか。死生観が養われ、臨終を迎える覚悟となりまた助けともなるのです。死にざまを考えるとは、生きることに真摯に向き合うことでもありましょう。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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