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日蓮宗新聞 平成21年6月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
56 
 臨 終 まる4

見届けることは生きる者の役目
お題目の功徳で 魂の安らぎと救い

 親しい者の臨終に向き合うときは深い悲しみと、おののきか伴うものです。あらかじめ医師によりその時が告げられて、幾分か覚悟ができるものでしょう。愛する人のいのちが尽きるのをしっかり見届けることは生きる者の役目です。臨終に立ち台い、人生の意味、生きること、死することについて身をもって学び、知ることになります。
 前回は私事ですが、母との別れを綴りました。その生を全うする姿は荘厳なものを感じさせてくれました。悲惨な事故や災害のケースは別として、家族の死に臨んで同様な感慨を抱く人は多いと思います。
 歌人の古野秀雄が妻を看とった歌は、いずれも胸に迫ってくるものがあります。傍にいながら、どうすることもできない辛さを秘めて、別離の悲しみと嘆きを詠んでいます。
 病む妻の足頸[あしくび]にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし
 をさな子の服のほころび汝[な]は縫えリ幾日[いくひ]か後[のち]に死ぬとふものを
 四人の子を残して遂に瞑目します。それは昭和十九年の夏、妻が四十二度のときでした。臨終の一首は
 母の前を我はかまはず縡[こと]切れし汝[なれ]の口びるに永く接吻[くちづ]く
 年老いた母、幼ない子どもたちの前で、いま息を引き取ったその唇に夫はしばし口づけて別れをなしています。余人の介在を許さぬ夫婦の愛を見る思いがします。
 加齢や長い闘病生活による衰弱、また疼痛緩和のための投薬などにより意識の混濁や眠りの中にあって、もはや言葉を交わすことができない臨終もあります。握り締めた手を握り返すかすかな反応に言葉なきメッセージを感じとったという話も聞きます。
 今、看取りの場は、およそ八割が病院や施設です。お題目を唱えることができない場合は声を出さずにお題目を唱えてください。個室や在宅であれば周囲に気兼ねはいりません。
 Tさんは永年信行を重ねてこられた方です。臨終に際し、お題目を唱え息を継いで休み、唱えては休みながら別れを告げ、「死ぬことも容易じゃねえ」とつぶやき、家人に見守られてお釈迦さまの霊山[りょうぜん]浄土へ旅立って往かれました。
 いつ、どこで、どのような状況であっても往く者、送る者が「これでよかった」と、すべてを受け入れることができれば幸せなことでしょう。また私たちにとり、臨終の場に一声でもお題目が響くならばもうこれ以上の何も要りません。命が尽きようとするとき、その人に代りお題目を唱えてあげてください。その方が唱えるならば、共に唱え、支えてあげましょう。
 お題目は「有難う」「よく頑張ったね」「お疲れさま」「世話をかけたね」「ごめんなさい」「また会おうよ」「さようなら」など、およそ命終に臨むあらゆる思いを包み、また凝縮します。
 仏前における日々の信行で臨終正念を祈る方もおられるでしょう。日蓮聖人遺文辞典の臨終正念の項には「臨終のとき、心を乱さないこと。死に臨んで邪念を起こすことなく、ひたすら仏道の成就を正しく念じつつ、心安らかに死を迎えることをいう」とあります。
 日蓮聖人は真に安らかな臨終は法華経・お題目によらずしては叶うことはできないと「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え」(『生死二大事血脈鈔』)と励ましています。さらに「最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の罪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(『妙法尼御前御返事』)と、私たちの成仏を約束されておられます。
 お題目の功徳によって生死[しょうじ]の迷いを断ち、罪や汚れが洗い清められます。苦しみや執着から解き放たれ、霊山浄土に参って(往詣)、御仏に見[]「」えることができ、魂の安らぎと救いがもたらされるのです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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