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日蓮宗新聞 平成20年12月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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50 | |
看取り
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生と死はお題目の中にある
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死に方は生き方に他ならない
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前回は自分の人生を振り返り、若いときの過ちを悔い、かつての女性を病床に呼んだ男性について記しました。思い残すことのない安らかな死を願ってのことでしょう。ボランティアも男性の希望をよく叶えたものです。
過去に犯した罪があるとすれば、その軽重・多少にかかわらず清算していきたいものだと思いました。この世のことはこの世で解決しておきたいもの、立つ鳥跡を濁さずといいます。
病人の世話をし、死に臨む日々を支え、その最期を看取るにふさわしい資質や心得、看取られる立場から傍にしてほしい人は、どのような心の持ち主でしょうか。
仏教看護の歴史をみると、修行中に病気となり床につく者が出ると、病人は精舎(僧院)の一角にある延寿堂、また無常院(堂)と呼ばれる場所へ移され看護を受けています。誰もが病人の世話をするわけではありません。それにふさわしい人が病人の傍に立っています。
「寛心にして事に耐え、時に従い問訊し、務めて意に適う」とあります。寛心は心がひろく、気持ちにゆとりがあること、人を受け入れ、思いやることです。
また、良き看取りは看取られる立場の人間性が最期のステージを左右します。
死をも積極的に受容しようとする人は死が迫っていることを知っても、取り乱すことなく、ゆとりさえ感じさせます。周囲からの善意に心から感謝し、自分の心を開くことができ、死を前にして今何をしなければならないかをわきまえています。全力で人生の行程を走り切った充実感、満足感を持ち、周囲の者にさわやかな印象を与えます。
自らの生命は神仏にゆだね、死は恐怖や不安の対象というより、むしろ解放であり、希望が成就するときだと考えています。
家族や医療スタッフに心から感謝の言葉を述べ、他者を配慮する言動が見られ、また、季節の移ろいや大自然の美しさに心を向けています。
精神科医の平山正実氏(聖学院大学教授)は「自己完結委譲型」と名づけ、このような人に接すると、看取る側が教えられ、すがすがしい思いを抱かせると解説しています。
仏壇のご供養がすみお茶をいただくとき、家族が生前の思い出を語ることがあります。主の母親、妻からは姑になる人です。身辺の整埋がされていて、形見分けの贈り先、品物の由来や思い出を書いた紙片が添えてあり、遺されていた金品は多くなく、その処理についても記されていました。
それとなく生まれ在所の家を尋ね、墓参もすませ、心のけじめをつけていた由、折々に子どもや孫たちには人生経験に根ざした教えを語り、感謝の言葉を遺し、またそれらが孫たちの心にしっかり届いているのです。
仏壇の給仕や月命日を疎かにしないこと、寺への付け届けについても妻(嫁)に話しています。その一つひとつが後に残る家族への配慮(愛)だったに違いありません。
介護を受ける身になっても、手の届くところに数珠と経本がありました。妻は看取りに心を尽くし、その間に姑は後事を託し、互いに別れの言葉を交わしています。心を打たれたのは、妻が「お題目を唱えたお母さんだったから…」と言えば、主も「そうだよなあ」とうなづきながら仏壇の遺影に目をやる姿でした。
「死にがいのある死、死なれがいのある死というものがある」。これはホスピスの医師から教えられたものです。死という自らの完結を目ざして、生も死も肯定し、受け入れていく。死をも価値あるものとして手の内に納めていく。死に方は生き方にほかなりません。
「お題目を唱えたお母さんだったから」と言わしめる生き方、死に方に深い感銘を覚えました。お題目のある人生の尊厳、お題目のある家庭の幸せをあらためて考えたものです。
私たちの生と死はお題目の中にあることを、心にとどめようではありませんか。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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