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日蓮宗新聞 平成19年10月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
36 
 生と死 

お題目の鋤をもって心の大地を耕そう        
田畑が荒廃しては、人生の  
実りも、有終の輝きも望めない

 「人生は出会いと別れに尽きる」といわれます。人と出会い、いつか別れを迎えます。さまざまな出来事にも遭遇します。また思想や宗教との出会いもあります。いずれも人生を方向づけ、喜びや悲しみをもたらし、転機や試練を与えます。人生は出会いにより広がり、別れによって深みを増します。死はすべての人に訪れ、生あるものは死において平等です。
 医学者で歌人の斉藤茂吉に次の一首があります。
 暁の薄明[はくめい]に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
「除外例なく」訪れる死に思いをはせています。「死の縁は無量なり」の書葉通り、死に至るきっかけは無数にあり、それはいつ、どこで、どのように訪れるか予測はつきません。日常の暮らしの中で心疾患や脳血管障害による突然の死。ガンなどによる闘病の果ての死。朽ちた古木が倒れるような緩徐な死。災害や交通事故。犯罪被害による非業な最期、また自死を選ぶ場合もあります。
 十年連用日記を手にした時です。表紙をくった左右の見開きは、向こう十年のカレンダーの小さな数字で埋っていました。この中に私の命日となる日があるかもしれない、ふとそんな思いがよぎって、六十半ばに達した年齢を自覚させられました。
 中学国語の時間に習った「少年老い易く学成り難し」の勧学詩。いま「階前の悟葉己に秋聲」を実感します。
 月例信行会で「私は葬儀の式場を予約してあります。この大法寺の本堂です。ただし日取りは未定です」と話し、年配の方に「私が皆さんの引導を申し渡すとは限りませんよ。私が先でご会葬をいただくかもしれません。"生きてる者は同じ年"と教えられたことがあります。これを"老少不定[ふじょう]"というのです」と法話をします。
心の大地を耕して人生の実りを…
 
人生の降車駅
 
 一年に幾度かは長距離バスやJRを利用して上京します。ターミナルは新宿駅。JRの路線は飯田線と中央東線のおよそ220キロ。人生80年と想定して40歳は甲府の東寄り石和温泉付近。私の列車はすでに神奈川県境、小仏トンネルを出て都内に入っています。この列車は信州へ戻ることはありません。時刻表は往路のみ、復路は載っていません。しかも新宿まで行き着くとは保障されません。何の準備もないまま突然、あなたはここが降車駅ですと告げられるかもしれません。私はあわてふためくことだろう。やり残したこと、果せなかった夢のすべてを投げ出していくしかありません。新宿までの命を賜れば、車窓には新宿副都心の高層ビル群が近づいて来ます。「間もなく終点です。網棚の荷物、お手廻りの品、お忘れ物のないように」とアナウンスが流れます。列車は静かにホームにすべり込む。その時私は心落ちついてホームに立つことができるだろうか。いま走ってきた二本のレール、私の人生を振り返る余裕があるだろうか。何がしかの手荷物の中身は何だろうかと、思いをめぐらせることがあります。
 釈尊は「人は死の領域に近し」「山の狭間[はざま]、海の底に隠れるとも、死の力の及ばざることなし」「この世にあるもの、動くと動かざるとにかかわらず、みなこれ滅びと移り変りの姿なり」と無常観を示されます。
 仏教では生と死は別々のものではなく、一つのもの(生死一如)。生の中に死が、死の中に生があります。生の果てに死が待つのでなく、生と死は私と共に歩んでいるととらえます。
 死を語るときはおおむね他者の死です。死を体験的に語ることは不可能であり、他界して再び戻ってくる者はいません。
 いつか必ず迎えるその日に向けて何をどうすべきなのか、自らの死をどう引き受けるのか、安心[あんじん]は、覚悟のほどは……。生ある限り迷い、戸惑い、おののきは尽きないでしょう。
 私たちにとってはお題目の鋤[すき]をもって、自らの内なる荒野、心の大地を耕すしかないと思うのです。心の田畑が荒廃しては、人生の実りも、有終の輝きも望めないと考えるものです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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