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日蓮宗新聞 平成19年11月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
37 
 生と死まる2

死に価値を置く文化が宗教
 日本人にとっては仏教です
共々にお題目を唱えましょう

 私が五十歳前後の頃でした。朝刊のコラムに「今日という日はこれからの人生の最初の一日である」とありました。その言葉は惰性になりがちだった心の隙間に飛び込んできました。やり直しができない人生だが見直しはできる、今日この一日は手つかずの新鮮な命なのだと思いました。朝の光を浴びるとき、この言葉が浮かんでくることがあります。
 それから十年ほどしてNHKテレビの「百寺巡礼」で身延山にも登詣した作家・五木寛之氏の著書に「今日という日は人生最後の一日と思うべし」がありました。死は遠い先、観念であった若い時と違い、還暦の老眼鏡がこの言葉を拾いあげました。今日一日限り、明日はもうない、やることは山ほどある。良いも悪いもピリオドを打たなくてはなりません。これは容易ならないと思い知りました。
 よく考えてみると、この二つのフレーズ(成句)は二つにして一つです。日蓮聖人の「一日の命は三千界の財[たから]にも過ぎて侯」(可延定業御書)に通底します。一日の光陰を無にしては、賜った命に申し訳がありません。タイムイズマネー(時は金なり)とは言いますが、タイムイズライフ(時は命なり)でありましょう。
 長生きしたいものだといいますが、長生きをして何をしたいのか、何ができるのか。量も大事でしょうが、質も考えてみたいものです。人のために使う時間もあれば、自分のために使う時間もあります。人は死に臨むと、私の一生は何だったのか、自分がこの世に生を受けた意味は何だったのか問うことになります。すべてとはいかないまでも、あれはあれで良かった、これはこれでまあまあだと幾分でも満たされるものがあり、「さようなら」ができればよいと思うのです。
 境内の掲示板に「木の葉散るわれ生涯に何なせし」の一句を大書したときでした。郷里に帰り実家の法事に参列した白髪の男性が立ち止まっていました。紅葉も末となった山裾を過ぎていく時雨を見やりながら「胸に迫るなぁ。よく死ぬとはよく生きることなんだよなぁ」と言い残すと、本堂に一礼して寺を後にされました。
 日本人にとって花とは桜。日蓮聖人も御消息(書簡)に「春はさくら」「さくらはをもしろき物、木のなかよりさきいづ」と記されていますが、咲いてよし、散ってよし、桜に寄せる日本人の情感はとりわけ繊細です。花に酔いしれるのも、やがて散るからでしょう。散るからこそ咲き誇るそのときを愛[め]でるのです。
 死というものは人を謙虚にします。散るからこそ今日の一日をいつくしむのです。
 「死を見つめて生が輝く、生きるならば死を鏡とせよ」と書き遺したのは、作家の山本周五郎です。死というものが視野にない生は軽薄であり、生の奢[おご]りを感じます。限りある生を思うとき、人との出会いを大事にしないではおれません。「一期一会」の所以[ゆえん]です。死を忌み嫌い、目をそむけていては、死に向けての心の準備ができるはずはありません。
 入寺して初めての葬儀が心に残っています。通夜の枕元には、八十一歳の天寿を全[まっと]うした媼[おうな]が手ずから縫いあげた白い経帷子[きょうかたびら](寿衣[じゅい])が折目正して置いてありました。「見てやっておくれよ、いつ仕上げたものか、この縫い様を」と親類の婦人が感じ入った声で周囲に呼びかけていました。一針一針、どのような思いを縫い込んだものでしょうか。四十年も昔のことになりましたが、そのときの情景は今でも厳粛な思いにさせてくれます。「人は死すべきもの」という自覚は人間の証です。
 死はすべてを無に帰すもの、一切の終わり、無価値なものなのでしょうか。死を意味あるものとし、死に価値を置く文化が宗教であり、とりわけ日本人にとっては仏教です。
 死を恐れや不安というよりも、人生の完結ととらえ、希望が成就する時だと考える人がいます。加齢と共に肉体は衰えても、精神的には一層成就して満ち足りた老境を迎える人でしょう。日頃から御[]「」仏を拝し、寺に詣で教えに触れて養われるの見方・考え方(仏知見は、信行の功徳として戴できるものだと思いす。共々にお題目を唱ようではありませんか。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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