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日蓮宗新聞 平成19年9月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
35 
介護との出会いまる6

人は老親の看病をし、看取ることによって初めて大人に

介護は人を強くも優しくもする

 近くの村から「介護者の集い」に講話の依頼がありました。行政が在宅介護の人たちに情報交換と息抜きの場を企画したのです。集ったのは対象家庭の約三分の二、四十名程です。妻や嫁そして娘、孫娘という関係、また男性(夫)も二、三名います。保健師と私の話の後、話し合いの輪ができました。
 「今朝は女房が父ちゃんありがとうというなり涙を流すんだよ。こっちも込み上げるもんかあって手元がかすむ。若いとき好き勝手なことをやった罪滅ぼし。何とかしてやろうと思う」という声がありました。二度、三度うなずく人、目頭を押える人、介護を祖う者同士が分かちあう情感です。こうした日頃の思いを語りあうことが明日へのエネルギーとなっています。
 ◇ ◇
 認知症のグループホームの介護士の話です。
 時には戦場のようになります。それでも周囲が本人の気持ちに添う対応ができれば、落ち着きを取り戻してくれます。異常な行動にも必ずそれなりの理由があります。介護する側の感情や人間性に敏感です。その人らしい生活に身を置くと穏やかな表情をみせてくれます。これが介護の原点ですと教えられました。
 また認知症を理解し的確に支援できる人(サポーター)を増やしたいと呼びかけています。安心して暮せる高齢社会の実現は、私たち一人ひとりのありようにもかかっています。年老いた人をいかに遇するかは文化の尺度です。
 日夜介護に打ち込むスタッフには頭がさがります。ただそれに見合う報酬が得られていません。介護福祉士の有資格者は四十七万人、そのうち現場に立つのは二十七万人です。離職するケースが多いと報道されています。介護職の社会的評価は高いとはいえず、またハード(困難、激しい)な現場です。
    ◇ ◇
 介護はできる限り本人の意志や持っている能力を引き出し、自立を助ける方向が望ましいとされています。寝返り一つでも自分でできることは、努めて試みてほしいといいます。年老いた惨めさ、思い通りにならない身に溜息をつく、失ったものを嘆くばかりでなく、残された能力を活かすことに目を向けようと思います。
 老いることは人間の定め、介護もまた自然の成行き、誰もが親の老いに直面します。若いときは我れ関せずでも人生の時節は巡ってきます。「昨日は人の上、今日は我身の上なり。花さけばこのみなり、嫁の姑になる事侯ぞ」とお示しです。
    ◇ ◇
 介護は壁であり、また扉でもあります。介護は人を育て、人を大きくします。日本テレビの「NNNきょうの出来事」のキャスターを務め、第一線を退いた小林完吾氏は語ります。「認知症の母の現実に付き合ってみて、人は子どもを育てて初めて大人になると言いますが、私は人は老親の看病をし、看取ることによって初めて大人になるのだと確信しています」と。介護は人を強くも優しくもします。壁と見るか扉と見るか、扉の向うに何か見えてくるでしょうか。介護もまた仏道修行にほかなりません。
 「是の処は即ち是れ道場なり」(法華経・神力品)の聖句を胸に据えたいものです。
    ◇ ◇
 仏教は人の生き方として慈悲を説きます。「慈」は、“請わずの友”という意味があり、求めがなくても、そっと手を差しのべる優しさをいいます。「悲」は、人生のどうすることもできない悲しみや苦しみに共感、四苦する思いやりのことです。
 釈尊がご在世の日常の一コマが今に伝えられています。老いて病いに倒れた弟子を見舞われたときのことです。大小便の中に臥せっている弟子を見て、自ら湯水でその身を洗い清めておられます。その折に弟子たちを教え導かれたお言葉は次のようなものでした。
 「私に仕えようと思う者は病む者を看病せよ」(中村元訳)。いのちの尊厳に根ざした釈尊の大きな深い慈悲の心を思わずにはおれません。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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