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日蓮宗新聞 平成24年5月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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91 | |
悲 嘆
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垣添氏講演「妻を看取る日」
夫人救えなかった無力さ
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「日蓮宗ビハーラ活動十五周年・ビハーラネットワーク(NVN)発足十周年記念大会」が、昨年十一月二十八日東京池上本門寺朗峰会館で開催され、日本対がん協会会長(医学博士)垣添忠生氏の「妻を看取る日」と題する記念講演が行われました。
垣添氏は一九四一年大阪出身、東大医学部卒。一九七五年国立がんセンター病院に勤務、手術部長、院長、総長を歴任し、二〇〇七年より対がん協会の会長に就任しています。
講演内容は妻の病歴、在宅医療、喪失と再生の三本柱。重いテーマであると話の合間には結婚以来夫婦で通いつめた奥日光の四季の風光を映写し、中禅寺湖のカヌーや男体山登山の思い出を語りました。
今回より講演の「喪失と再生」部分の要旨に加え、演題と同名の著書からも引用し、喪失の悲嘆から再生へと向う道筋を学びたいと思います。
夫人は病弱で膠原病を患っていて、一九九五年甲状腺がん、二〇〇〇年に左肺の腺がん手術を行ない定期的に診察を受けていました。ところが二〇〇七年になって治療が困難という小細胞肺がんの病巣が発見され、初期であったにもかかわらずわずか数ヶ月で全身に転移。垣添氏は自ら勤める病院において抗がん剤投与など最先端の治療に全力を尽されたのです。しかし、その年の大晦日に四十年間連れ添った最愛の昭子さんを喪いました。
「闘病中は副作用の口内炎や食道炎が出て流動食をやっとの思いで喉に押し込んでいました。そのような状態でも文句や愚痴をこぼすことなく、また不安や絶望から嘆いたり人に当ることもなく、その精神力は医師の目からも見上げたものでした」。
「病室は高層階にあり眼下には東京湾が広がり、絵を描くことが好きだった妻はときどきスケッチをしていました。秋の夜長にはよく二人してその夜景を飽きもせず眺めたものでした。窓の外を見ながらふいに『わたしがいなくなったら、寂しくなるわよ』と言い、絶句させられたこともありました」。
「病院は暮の二十八日より年末年始の休みに入り外泊できる患者はわが家で家族と正月を迎えます。家に帰りたいという訴えは、家で最期を迎えたいという願いであろうと思い、妻も自分の命が燃え尽きようとしていることを知っていました。二十八日、車椅子で酸素を吸入しながら大量の医薬品や機器とともに二ヵ月ぶりの帰宅となりました」。
「妻の目には生気がよみがえり、慣れ親しんだものに囲まれて穏やかな笑みを浮かべていました。いつもの会話ができたのはこの日が最後となったのです。翌日からは次第に容態が悪化し意識が遠のいていきました。がん専門の医師である私の目の前で、がんが妻の命を奪っていく、残されているのは見守るだけ、ひたすら妻の世話を続けました」。
三十日になると過呼吸と無呼吸を交互にくり返すようになり、死期が近いと覚悟を決めました。大晦日になってもまぶたは閉じたまま意識は戻ることなく、午後には息遣いが激しくなり苦しそうです。夕闇が訪れ静かな家の中に妻の息遣いが響くようになったときです。突然身を起こそうとして、まぶたを開き、私の顔を見て、全身の力をふりしぼるように私の手を強く握りました。『ありがとう』という声にならない声を聞きました。『昭子、昭子!』と私が握り返した直後、妻の手から力が抜け、頭は枕に沈み、まぶたは二度と開くことはありませんでした」。
「妻が手を握ってくれた瞬間をよく思い出します。最期に大きな大きな贈り物を届けてくれました。私を気遣い、いくら感謝しても尽きることはありません。あのときの妻の手の温もりがその後の私を支えてくれました」。
垣添氏は我が国最高水準の医療技術を駆使してもなお、夫人の命を救えなかった無力さを実感し、喪失感はいよいよつのり半身を失ったような寂しさがこみ上げてきては、涙があふれたといいます。
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(次回に続く)
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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