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日蓮宗新聞 平成23年10月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
84 
 悲 嘆 まる9

相手の気持ちを尋ね、思いを受け止める

 小学生と園児の幼い姉妹、その父である夫を残して亡くなった三十代の母親がいました。葬儀に参列した夫の同級生の一人が、帰り際に彼の肩をたたいて、「おい落ち込むなよ」と力付けたといいます。後日になり彼が、「幼い子供たちをおいてって、落ち込まなくておれぬものか」と、親族にもらしたと聞き及びました。無理からぬことです。死別体験のない同級生は、友人として精一杯の励ましのつもりだったのでしょう。このように悲しみの遺族にかける慰[なぐさ]めの言葉が、心の傷をさかなでしてしまうことになります。
 三人兄弟の次男を亡くして[ほかにもお子さんがいてよかったですね]と言われ、「あの子はあの子、かけがえのないひとり。兄や弟にかえられるものではありません」と。慰めとしては受け入れがたい一言です。
 また、若くして夫と死別した女性にかけられた言葉は「あなたはまだ若いから再婚できるわよ」でした。「あなたよりもっと大変な人もいるんだから」は、悲しみは比較できないことを知らない人の言葉だといいます。一般的な「早く元気になって、頑張ってね」「運命だと思ってあきらめるしかないよね、気をしっかり持って」「前向きに、上を向いて」などなど。研究者は悲しみの涙を見ると不安になり、つい安易な言葉で励ましてしまう。周囲の無力感によるものが大きいとしています。「元気になりましたか」という呼びかけは、悲嘆の度合いや日時の経過によっても受けとめ方は違います。「そんなに早く元気になれるものですか。泣き顔は見せたくない、元気そうに振舞っているだけよ」と心で叫ぶこともあると手記にありました。
 二十二歳のいのち人は因縁という 因縁とは何ぞ迫りてみたき
 ひとりで山行し遭難した子をもつ母の歌。誰かが因縁という仏教語を用いて慰めたのでしょう。因縁の因は直接的原因、縁は間接的条件をいい、因と縁によって結果(果)が生ずることをいいます。それはともかく、「定められた運命」としてあきらめを語ったのでしょうか。因縁の二字では容易に癒されなかったのです。悲嘆の心に対しどう言葉をかけ、寄り添っていけばよいのでしょうか。
 法事の挨拶で、「日がたつのは早いもの、もう四十九日ですね」と声をかけたところ、「一日一日が長くて…やっと四十九日が来たという気がします」と返されたことがあります。悲しみの感じ方、表し方は一様ではないと、あらためて気付かされたものです。自分の気持を率直に返してくがさるときはともかく、そうでなければどうなるのでしょう。おそらく「お上人は私の気持をわかっていない」と思われるにちがいありません。
 こうした体験から、幾分か私なりの対応ができるようになりました。こちらの感じ方、価値観を横に置きます。以前なら「新盆が済み一区切り、落ちついたでしょう」などと言葉をかけていました。新盆法要で一区切りなどつかない悲しみもあるはずです。いまでは「その後いかがですか」「いまどんなお気持ちですか」と尋ねながらその思いを受けとめようと心掛けています。
 事故や災害など、無惨で衝撃的な通夜や葬儀には、どう言葉をかければよいかわかりません。言葉を発すればかえってむなしさを覚えます。こうした感想を「悲嘆ケア(グリーフケア)」の研修の際に述べたところ、「その自分の思いをありのままお伝えされたらいかが。『本当に言葉もありません』と心から告げるだけで充分ではありませんか」という指導でした。
 また死別体験の有無」は癒し励ます側になったとき重要となります。悲しみはその人を強くも優しくもしますが、その他者への優しさが人の心に安らぎを届けるのです。その上でさらにお題目を唱えて一層深くたしかな安心が得られることでしょう。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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