日蓮宗 ビハーラ・ネットワーク
 
HOME > TOP > お知らせ > 関連記事 > 日蓮宗新聞より
(日蓮宗新聞 平成23年7月20日号) 記事 ←前次→

NVNトップメニュー
NVNについて
ビハーラ活動とは
NVNニュース
ビハーラ活動講習会
ビハーラグッズ
心といのちの講座
お知らせ
 関連記事
  日蓮宗新聞より
 レポート

会員限定
日蓮宗新聞 平成23年7月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
81 
 悲 嘆 まる6

泣けて泣けてたまらないとき
そんなときはお題目を…

 「すみません」とハンカチを出して目頭をぬぐい、こみあげる嗚咽を押し戻そうとする、娘を亡くした母親。また、「みっともねえところを見せて…」と日焼けした手の甲で涙をぬぐう、妻に先立たれて日もまだ浅い農家の主。寺の玄関で、あるいは境内の木陰でその後の様子を伺う折に聞く言葉です。死別の悲しみに涙を見せて、許しを乞う必要などないはずです。男であろうと女であろうと、涙することはみっともない姿であり、見るに堪えないことでしょうか。決して恥じ入ることではありません。このようなときの日本人の対応は儒教文化の影響が及んだもので有害な固定観念とする指摘があります。
 可愛がってくれた祖母が亡くなり、涙ぐんでいた小学生の男の子に「男だ、泣くなぁ」と言った逞しい体躯の父親がいました。子どもは喪失の悲しみを抑え込まれ、好ましいことではありません。このようなとき、大人は肩を抱きかかえ子どもの気持ちに寄り添いたいものです。大人の場合も気心のしれた間柄であれば、悲しんでいる相手の体に軽く触れ、慰めることは言葉以上のものがあります。
 また子どもの前で親が泣いては不安にさせると心配する向きもありますが、物心がつけば子は親の涙を優しさと受け止め、いつまでも覚えているものです。
 涙は弱さの表れでは決してありません。感情を抑え込まず放出することは悲しみを癒すために大切なことです。涙を流すことは、心身の健康的な営みであり、むしろ泣かないことの方に問題があるといわれています。涙を流すことは浄化作用(カタルシス効果)があり、泣いた後にはすっきりし、心や体の緊張がほぐれていくものです。
 新宗教の教団に入っている友人から、「そんなに泣くとホトケが浮かばれん、成仏できない」と言われ、苦しんだという人がいます。泣かないではおれないのに泣くことが障りになるという二重の苦しみです。こうした泣くことは妨げになるという考え方は、他宗門の和讃に見られるものの、仏教の本流ではありません。充分に涙を流すことが必要なのです。
 「ターミナルケア」誌の「泣くことの研究」によれば、涙にはロイシン・エンケファリンとプロラクチンの二種類の成分が含まれ、これらが苦痛をやわらげる働きを持っているそうです。それもただ感情的に泣いたときの涙であって、タマネギを刻んで出る涙には含まれていません。
 悲しみのとき人は涙によってバランスを取り戻すことができます。感情的に涙を流すことができるのは人間だけであり、涙は内なる「自然の癒しの力」であると解説しています。
 真間山弘法寺の元貫首・故鈴木恵隆師の信行指導には心打たれるものがあり、悲嘆の檀信徒と向き合うときの指標とさせていただいております。突然の事故により若い妻は赤子を背負い棺にすがり泣きじゃくっています。両親がうながすものの、容易にその場から離れません。師は「泣くだけ泣かせておあげなさい」と声をかけ静かに見守ります。
 鈴木師は「涙は不思議なもので人間に与えられた天与の宝物と思う。涙は人間を浄化し、奮い立たせる力がある」とし「涙というものは、“嬉しきにも涙”“辛きにも涙”と大聖人が仰せられたように、人間に不思議な力を与えてくれる。その涙こそ南無妙法蓮華経だと、私はいただくのである。″悲しいとき、辛いときには、泣くかわり、涙のかわりに、南無妙法蓮華経と唱えなさい。泣けて泣けてたまらないときは、南無妙法蓮華経を涙のかわりにお唱えしなさい。涙以上の力が与えられますよ″と話し、法事にはお経を短くし、そのかわり唱題を盛んにしている。親を亡くした場合でも“泣くだけ泣きなさいと導く」と述べておられます。(『地上光あり』)
 お題目には涙を越える力が秘められているのです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
この頁の先頭へ▲