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日蓮宗新聞 平成22年7月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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弔 う
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「いつまでもあると思うな親と金」。お金はともかく親との別れがくるのは自明の理。父が逝って四十五年、母が亡くなって十三年、老いの門口に立ち到って、亡き父母がしきりに懐かしく、思い出の糸をたぐり寄せることがあります。本堂に、文久元年と銘のある、胴廻りが黒光りした大太鼓があります。四、五歳の頃、父によってこの太鼓に三尺帯で縛りつけられた記憶があります。ただ、何をしたのかは思い出せません。病弱でしたが時に厳しい父でした。小学生の時からその父に従いお盆の棚経[たなぎょう]や寒修行[かんしゅぎょう]に歩いたものでした。
歌集に拾った二首。
ただ一度われを撲[う]ちたり沓[とお]き日の したたかに熱き父の手のひら
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武田弘之
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羽[[な[]「ため少年われを打ちすえし 父よみがえるつくつくぼうし
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浜 守
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「父」という字は手に斧を持った姿を表わしています。父の厳しさがあって、母の優しさがひときわ感じられるものでしょう。父は風、母は太陽。父は光、母は匂い。父は背中、母はまなざしです。父からは現実の厳しさを知り、約束の重さ、責任を果たす義務、辛さや苦しさに酎える力を学ぶといいます。父の存在は、女の子にとって身近な異性として影響を及ぼします。親と子の間には伝えようと意識しなくても伝わってしまうもの(感化)があります。
「相田みつを展」で次の言葉に出会いました。
「アノネ 親は子供をみているつもりだけれど 子供はその親をみているんだな 親よりもきれいな よごれない眼でね」
親は親のまなざし、子は子の純な眼があって人は人に成るのでしょう。それにしても親の限りなく大きな恵みに真に気付く(知恩[ちおん])のは、親がこの世を去ってからです。
孝とは親を大切にすること。戦前の孝は家族制度を維持するため「しなければならない」と義務づけられたものでした。現代の孝は自然な人間関係の表れとして「しないではおれない」というもの。親の愛情に応え、報いたい(報恩[ほうおん])と考える子の側の気持です。
日蓮聖人が父を亡くしたのは正嘉二年(一二五八)三月十四日。聖人三十二歳、この年災難の原因と対策を究めるために駿河の岩本實相寺[いわもとじっそうじ]の経蔵[きょうぞう]に入っています。
日蓮聖人が小湊[こみなと]の海辺で父母と起居を共にしたのはわずか十一年、十二歳で清澄[きよすみ]の山に登り叡山修学の研鑽[けんさん]を経て、再び故郷の地を踏んだものの、待ち受けていたのは打ち続く受難の始まりでした。
日蓮聖人にとって、身命を投げ打ち法華経を弘[ひろ]め、人々を救うことが父母への報恩、孝の道であり、また法華経の信行なくしては父母を弔う道になり得ないということでした。生み養われたことにとどまらず、父母によって法華経にめぐりあわせていただいたことが、究極の父母の恩であると示されています。さらに法華経は釈尊[しゃくそん]が父母のために説かれた「内典[ないでん]の孝経[こうきょう]」であるとし、亡き父母を弔う人をわがことのようによろこばれ、法華経を贈ることを薦めています。
親の菩提を弔う塔婆へは「追孝供養[ついこうくよう]」と書くようにしています。追善供養は、亡き親に追って孝養を果すことになるのです。
身延山の頂[いただき]「奥之院[おくのいん]・思親閲[ししんかく]」は日蔭聖人が故郷、房州の空を拝して父母の菩提を弔った霊場。山門へ向う石段の両側にひときわ聳[そび]え立つ大杉は両親追孝のために手ずから植えられたもの。日蓮聖人は父母の出自や人柄について自らは書き残していません。どのような父と母だったのでしょうか、大杉を仰ぐときいつもこのことが心をよぎります。
日本第一の法華経の行者[ぎょうじゃ]を生んだ父母は「日本国の一切衆生[いっさいしゅじょう]の中において大果報の人](寂日房御書[じゃくにちぼうごしょ])と記されたことに深く心を寄せたいものです。父母へ贈るこれ以上の言葉はないでしょう。せめて人の子として、この父を父と仰ぎ、父と呼べたことを幸せに思い、弔うこと(報恩)ができればと思うのです。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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