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日蓮宗新聞 平成21年3月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
53 
 臨 終 

お題目を信受して     
 心安らかに迎えたいもの
死と向き合う覚悟と心構えを

 臨終とは死に臨むこと。死のまぎわ。命の終わる時をさします。
 釈尊の死は「入滅」、また「涅は[ねね]んに入る」と称され、涅槃は吹き消す、消滅を意味し、煩悩[ぼんのう]を滅して迷いのない静寂な境地をいいます。また釈尊や高僧の死をさす言葉となっています。日本など北伝の仏教では、釈尊の入滅を紀元前三八三年二月十五日と定め、涅槃会[ねはんえ]を営みます。

鳥獣や昆虫、木々までも
 
 涅槃図の釈尊は四本の沙羅双樹に囲まれた宝床に、枕を北に顔を西に向け、右脇を下に足を重ねて横たわっています。周囲には多くの菩薩や仏弟子、また信徒たちが集い、悲しみの余り泣き叫ぶ者、あるいは気絶する者などが描かれています。右上には?利天の浄土から仏母・摩耶夫人が急を聞いて降りてくる姿が、下方には多くの鳥獣や昆虫など生き物が群集しています。沙羅の葉は枯れ、雲間にかかる十五夜の月も光を失い、樹々の間に跋提河[ばつだいが]の流れが見え隠れしています。
 日蓮聖人は『祈祷鈔』にご入滅の情景を記され、「一切衆生の宝の橋をれなんとす。一切衆生の眼ぬけなんとす。一切衆生の父母主君師匠死なんとす(中略)血の涙、血のあせ倶尺城に[くしなじょう]に大雨よりもしげくふり、大河よりも多く流れたりき。是[これ]偏[ひとえ]に法華経にして仏になりしかば、仏の恩の報じがたき故なり」と受け止められました。

身をもって無常を示す
 
 釈尊は次のような言葉を遺されています。「弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なないものはない。今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を、身をもって示すのである」(遺教経[ゆいきょうぎょう])と。
 また弟子のアーナンダ(阿難)に向かい「師の私には握り拳はない」と伝えています。この「握拳[あっけん]なし」とは隠している事柄、教えていない秘密の奥義はないということ、すべては説き明かしたということです。そして「自らを灯とし、よりどころとなし、法を灯とし、法をよりどころとして生きよ」が最後の教えとなりました。「法によりて人によらず」は日蓮聖人の弘教の指針、態度となったのです。

大いなる死
 
 「うつろいゆく世界から うつろわぬ世界へと 世尊は旅立ってゆかれた 草木の悲しみのなかに 鳥獣の涙のなかに それは孤独にして 尊い涅槃であった ああ八十年のおんいのちの火よ 今なお多くの人に 光と救いとを与えて 永遠[とわ]に消えることはない」
 詩人の坂村真民(故人)は釈尊の入滅をこのようにうたい、次の一文を添えています。「私が一番心ひかれるのは涅槃絵である。人間最高の死である。私は十字架にかかって息絶えられたイエス・キリストの絵にも頭か下がるが、やはり世尊のように木々も悲しみ、鳥獣もなき、一時は光さえその色を失ったという静かな死が最高だと思う。世尊の大いなる死を心底から考え見つめよう。鳥獣たちと悲しみを共にしよう」と。釈尊の死は不滅の滅(不死の死)であり、それはすべての人のための死というべきものでした。

涅槃図のやすらぎ
 
 臨終(死)はひとりの例外もなく誰にも平等に訪れます。生ある者にとって死は当然の帰結。日頃から死と向き合う覚悟と心がまえを養っておかなければなりません。その方途はお題目を信受することの一点に尽きます。
 信州の二月はことさら寒さか厳しいため、私の寺では春の彼岸に享保年間より伝わる涅槃図を掲げる習慣になっています。幼い頃、茅葺の薄暗い本堂に父が掛けた大きな絵図を見ると怖くて逃げ出したものです。それは下方に描かれている獅子(ライオン)が私を睨みつける鋭い視線におののいたからです。今ではご涅槃の釈尊を飽くことなく拝し、不思議な心の安らぎを覚えています。
 涅槃図のやすらぎを追う老いの坂      中田たつお
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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