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日蓮宗新聞 平成20年9月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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47 | |
看取り
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お題目の祈りがあれば深い安らぎが…
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限られた生、いただいた この生を全うしましょう
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先頃特別養護老人ホームの敬老会の講演に出向きました。大ホールは車椅子の利用者に家族と職員が加わって賑やかでした。最高齢の百二歳を筆頭に長寿の記念品授与があり、市長をはじめ来賓の祝辞が続きました。
祝賀の席で死にまつわる話題はいかがなものかと案じていたところ、担当者から看とりにも触れてほしいと希望が寄せられました。施設を終の住処と考える利用者が多くなり、また終焉か近いことを家族に知らせても施設に看とりをまかせ、臨終に立ち会わないケースが増加傾向にあるそうです。
かつて老人や病人を介護し、また看とることは私たちの暮しの中に文化として存在していました。家族、ことに次の世代、子や孫は家族の死に立ち会って、いのちの尊さや死について自然に学んだものでした。現代人は、老いや病、そして死までも家庭から遠ざけてしまいました。
それなりの理由はありますが、人が死を迎えるとはどういうことなのか、その知識や体験を持ち合わす機会を失うことになり、考えてみなくてはなりません。
ホスピスケアの研修を受けたことがあります。感覚器官では、耳の機能が最後に残ります。家族が枕辺で交わす会話も、本人を苦しめ、悲しませる言葉を弄しないようにと教えられました。はためには意識がないと思われても、本人は家族や肉親の声を聞いて安心することがあるといいます。応答がなくても、できるだけ声をかけてほしいものです。また呼びかけることによって看とる側の思いは浄められます。
朝日歌壇の入選歌に次の一首を見ました。
「きみが家族を生かしているんだよ」
夫の呼びかけ意識なき妻を十四年生かせり
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東谷節子
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夫は松本サリン事件で被疑者扱いを受けた河野義行氏です。テレビニュースで妻澄子さんの頬を撫でながら話しかける映像はまだ記憶に新しいものがあります。
ことさらに可愛がっていた孫が臨終に駆付けて、「おばあちゃん、○○だよ、わかる?遅くなってごめんね、いま帰ってきたの、わかるよね。おばあちゃん!」と呼びかけました。それまでまったく反応を見せなかった祖母の両眼から涙が溢れたという話を聞きました。
仏教では聴覚を耳識といい、耳とその能力を耳根といいます。法華経は耳根清浄を説き、あらゆる世界の声を聞き、仏の説法も菩薩や僧尼の読経の声も聞くと教えています。「この法華を持たん者は、未だ天耳を得ずといえども、ただ所生の耳を用うるに功徳己にかくの如くならん」(法師功徳品)とあります。
たとえ聴覚機能が消滅しても、その心(意根)に、その魂に呼びかけたいものです。「こころにてやがて心につたふる」という、「以心伝心」は仏教より生まれた言葉です。
厳しい経済状況に人々は働かないではおれません。忙しさは承知の上でなお、一度でも多く年老いた父や母のもとに足を運び、顔を見せ、言葉をかけ、一刻でもその衰えた手足をさすり、積年の労苦をねぎらいましょう。いのちの尽きる日が迫ればなおのことです。こうした日々が限りなく尊いものであったと振り返るときが必ずあるものです。
私たちが産声をあげたとき、助産師の手を借りたように、人が死に臨むときは助死婦(夫)がいても不思議ではありません。肉体的精神的苦痛から開放され、人と交わり、見守られ息を引きとりたいという願いは私だけではないでしょう。そして看とり、看とられる場にお題目の祈りがあれば深い安らぎを得られることでしょう。
敬老会では「いつまでもお元気で」という祝辞が続きました。看とりについて語った私は「限られた生です。賜った、いただいたいのちの火を燃やし尽し、この生を全うしましょう」と呼びかけました。
どのようによき死を迎え、よき死を看とるかは、いつの時代も変ることはありません。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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