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日蓮宗新聞 平成20年2月20日号
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もっと身近に ビハーラ
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藤塚 義誠
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40 | |
生と死
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死の不安から、いのちの安らぎへ
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最上の手だてはお題目
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いづれかが一人になる日怖れつつ相添ひて見る伊豆の夕映え
新春の歌壇を読み目にとまった一首です。
作者は東京の男性。西伊豆へ旅した老夫婦なのでしょう。駿河湾の彼方に落ちる夕日が空も海も染めあげて、そ力中に立ち尽くす二つのいのち。お互いの心に通いあう思いは何でしょうか。
川柳に「どちらかが必ず座る通夜の席」があります。いつか二人を分かつ日が訪れます。無惨にも死は愛するものを奪い去っていきます。誰もが避けがたい定めと知り、傍らにいる者を気づかうのです。
忘れがたい老夫婦がいました。私がまだ二十代の頃です。月回向がすみ、こたつをすすめられ、ひと休みしていた時です。お婆さまが「お上人さん、ご厄介になるのは、私が先か、お爺ちゃんが先なのか」というお葬式の話題になりました。「お爺ちゃんが先で、私があとに残った方が幸せですよね」と問いかけてきました。この種の話は年若いものにとって不得手なもの、うかつな返事はできません。困惑していると「お爺ちゃんが逝ったら、私もじきに逝くでね」と言われました。話はこれで終わると思ったのです。□数の少ないお爺さまが言葉をつなげました。「あわてることはねえさ。ゆっくりしてこいや」と。あったかい、ほのぼのとした心地になったのを覚えています。お婆さまはお爺さまを看とって、住み慣れた信州を離れ、息子夫婦が暮らす東京の家に迎えられ、お題目を唱え穏やかな日々を送りました。
同じようにつれあいを亡くしたお婆さまがいました。初彼岸に伺ったときです。「淋しくなったね」と声をかけると、「淋しいことは淋しいけれど、わしゃあ幸せね」といいます。それは前の年の秋、アルプスの頂きに雪がきて、里山は紅葉の盛りでした。農家の午後の休み、縁側に腰を下ろしてお茶を飲んでいたときです。目の前に連なる山々を眺めながら、「ここまでお婆ぁと暮らしてきて俺は幸せだったぁ」とポツリと□にしたそうです。それからしばらくして、にわかな別れになってしまいました。しかし、生前のお爺さまの一言が、独り身となったお婆さまの内側から支えているのです。その言葉はお爺さまの真情であり、いのちといっても言い過ぎではありません。生と死の境を越えて、残された者の腕によみがえり生き続けます。五年たち、十年たっても心に生きるギフト(贈り物)ができれば、どんなによいことでしょう。お婆さまはあるとき、「あのような物言いをちょくちょく小出しに言ってくれたら、もっとよかったのにね」と笑みを浮かべました。
その人が亡くなったとき、その人がどのような生き方をしたのか、人生の価値が問われてきます。その人の生き方が、残された者にどのような意味をもたらすかが、その人の人生を決めるのだと思います。またその人が残し、与えてくれた愛や、優しさや、生き方が、支えとなって、明日へ踏み出す力になるのです。
長距離トラックの運転手を夫にもつ方がいます。夫は酒を□にしませんが気性は激しく、家庭内のささいなことから言い争いになります。しかし、次の日の朝は気持ちよく送り出すよう心掛けているといいます。一つは安全運転のためです。二つには万が一あってはならないが、事故にまき込まれ、命を失うはめになっても、夫との最後の会話に悔いを残すようなことはしたくないからです、とさりげなく話す奥さんの心根に、いたく感銘を覚えたものです。死について思いめぐらすことは、生を考えることです。今をどう生きるかというテーマを、私自身に課すことになります。
あらゆるものには終わりがあり、それを変えることはできません。死に向かって非力、無力で手立てはないのでしょうか。自分ひとりで人生の究極を引き受けるごとはたやすいことではありません。私を超えた大きな存在にすべてを委ねることで道は聞かれていきます。私たちはみ仏(本仏釈尊)の「唯我一人能為救護[ゆいがいちにんのういくご](ただわれ一人のみ、よく救護をなす)という慈しみの手に包まれています。死の不安から、いのちの安らぎへと導く最上の手立ては、お題目のほかに見出すことはできません。ゆるぎない信を養いたいと思っています。
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(日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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