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日蓮宗新聞 平成19年7月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
33 
介護との出会いまる4

『おばあちゃん長生きしてね』

お題目の声あるところ…生きることも死することもその救いの中に

 「在宅死」。畳の上で息を引き取りたいという願いは叶えられない時代です。在宅介護は限られたスペース、人手不足などから施設入所を余儀なくされています。入所の方からは「家に帰りたい」という声をよく聞かされます。こうした事情もあってのことでしょう、地方では葬儀に続き野辺送り、埋骨という形が慣習でしたが、「あんなに帰りたがっていたから、しばらく家に置いてあげたい」という喪家があります。「ボロ家[や]でも、家ほどいいところはねぇ」と訴えます。愛犬の鳴き声、べッドの傍らで眠る猫、見なれた窓越しの風景、台所からの匂い、子どもの笑い声…。家は生活の湯、家族の歴史が、思い出が詰まっています。在宅医療に取り組む医師が「病院ではひとりの患者の顔だが、家では主の顔付きで威厳がある」と話してくれました。
 しかし、介護を含む死に場所を選ぶことは容易ではありません。少子高齢化の進展は「多死」「孤立」の社会を現出します。我が国の年間死亡者数は平成15年に百万の大台に乗り、平成47年には160万のピークを迎えると推定されています(人□問題研究所)。その多くが高齢者です。昭和初頭、80歳以上の死亡は五l賀未満でしたが、ここ数年のうちには五割に達するといいます。一人暮らし、夫婦のみの世帯は増える一方、三世代世帯は二割に過ぎません。夫婦のみの世帯はいずれ単独世帯になります。看とる者の少ない、あるいはいない淋しい終末、孤独死が増えると想定されます。介護はどうなるのでしょう。
 そこで在宅支援や、看とりを組み入れた地域でのグループホームの試みが生まれています。寺院を一部を地域乃デイケアなどに開放するケースも出てきました。寺を中心とした信仰共同体として、信仰の仲間同士による介護支援も考えてみたいものです。
   □  □
 わが寺の盆の棚経は息子二人と私が分担して回向廻りをします。梵妻[ぼんさい](僧の妻、だいこくの意)は介護家庭には住職が出向くよう日程を組みます。読経が済めば限られた時間ですがベッドサイドに腰かけ言葉を交わします。衣の袖をつかんでいつまでも離してくれません。「お上人さん、たのむなぇ、よろしく」と、私の目をじっと見据えます。それには様々な意味があり、最期はお釈迦さま、お祖師さまのもとへしっかり導いてほしいという願いも入っています。手をとっては大きくうなずき、合掌に合掌を重ねお題目を唱えることがありました。
 「こんなになって生きとってもしょうがねぇ」「厄介かけるだけで、おらぁ何もできん」というお爺さまがいました。「無理もないね、そう思うよね、休んだままでいいから、家族の幸せを願ってお題目を唱え析りましょう。お題目はいつでも、どこでも、誰でも唱えられるもの」と話しました。
 寝たきりになって下[しも]のことがわからなくても手を合わせる人を誰が足蹴[あしげ]にできるでしょうか。
 「ねぇ、おばあちゃん、おばあちゃんはそこにいるだけでいいの、息しとるだけでいいの、長生きしてね」と小学生の孫から声をかけられたお婆さまがいます。孫の優しい心根に涙が止まらなかったと話します。孫の言葉を通した仏さまのお心だと思うのです。
 「そこにいる」存在することはすごいことです。老いていくこと、いのちの火が燃えつきるありさまを子や孫が見届けること、それは一歩先を行く者からの最大にして最期の贈り物でしょう。
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 母が在宅介護になって迎えた正月のこと。書き初めに日蓮聖人の『可延定業御書』の「一日も生きておわせば功徳積るべし、あら借しの命や命や」の一節を大書して母の居室に掲げたことがありました。節くれ立ち細くなった手を合わせ、何度もうなずいていた母の姿を思い出します。九十半ばの老いの声とは思えないお題目が日に幾度か聞こえてきました。お題目の声あるところ生きることも死することもすべてがその救いの中にあると思うのです。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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