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第11回「心といのちの講座」
「仏教とこころの深層 〜物語の心理臨床的意味〜」
Part 1 「鬼子母神の物語」
淑徳大学名誉教授
金子 保(かねこ たもつ)
平成26年11月18日(火)
於:日蓮宗宗務院(4階第4研修室)
スライド1(鬼子母神の物語)
金子保と申します。「心といのちの講座」の講師として、ご指名を頂きまして、ほんとうにありがたく思っております。わたくしは、昨年の3月に淑徳大学を退職いたしまして、退職の記念に『仏教心理学への道』と題します本を出版いたしました。渡部公容先生とは古い友人でございますので、1冊差し上げましたが、これに目を留めていただきまして、本日の講演会を迎えたと思っております。
本日の演題は「鬼子母神の物語」でございます。主題は、「仏教とこころの深層」と大きく構えましたが、特に「物語の心理臨床的意味」に絞りまして、わたくしたち一人一人の深層心理、深層意識に踏み込んだ内容を扱いたいと思っております。在職中は総合福祉学部では保育士の養成、大学院では臨床発達心理士、臨床心理士の養成に関係しておりましたが、このような保育や心理臨床の実践現場におきましては、基本となる課題が深層意識の研究にはあると考えまして、取り組んで参りました。スライドお願いします。
スライド2(「鬼子母神の物語」の柱立て)
本日の講演の柱立てを申し上げます。まず、鬼子母神の概念につきまして、自己紹介の意味もあって、子ども時代にさかのぼり、思い出される「鬼子母大善神」の石柱、さらに国語辞典で調べたことなどを紹介します。次に、研究資料について説明します。ここでは、経典ではなく、子供向けの物語を選んだ論拠につきましても考えてみたいと思っています。3番目には、研究資料として取り上げた「鬼子母神物語」の概要を紹介します。鬼子母の誕生、異変、結婚、等々、物語の展開に沿って、説明いたします。第4が考察でございまして、物語の臨床心理学的な構成、鬼子母の性格、母性の発達、鬼子母コンプレックス等について考察した結果を報告いたします。そして、最後に結びですが、本席は生命倫理研究会での報告ということでございますから、生命倫理に関係した結びを用意したしました。それでは、よろしくお願います。スライド変えてください。
スライド3(思い出される「鬼子母大善神」の石柱)
わたくしの子ども時代、春・秋の彼岸の墓参りが記憶に鮮やかです。母親に連れられ、国鉄横浜線の原町田駅で下車して、仲見世の花屋に寄りましてから寺の門をくぐります。スライドは、今年の秋の彼岸の折にデジカメで撮ったものです。東京町田の日蓮宗法要山浄雲寺と申します。室矢住職にお目にかかれましたので、お尋ねしました。山門の右脇に、大人の二倍か三倍もありそうな、大きな「鬼子母大善神」の石柱があったように思うのですが、ございません、どうしたわけですか? すると、ご住職は「安産子育て/鬼子母大善神安置」の拓本をとりだされまして、破損が進んで危険なので、平成大改修の際に、本堂の鬼子母神像の床下に埋めたとのことでした。中学生になってからではないかと思いますが、鬼の字に「ノ」が抜けていて不思議に思った記憶があります。帰り際に気づいたのですが、本堂の右わきの柘榴の樹が大きく育っておりまして、ご承知と存じますが、柘榴は子沢山の鬼子母神にちなんだものと聞いております。スライド変えてくさい。
スライド4(国語辞典で「鬼子母神」を調べる)
鬼子母神って何だろう? 私の使い古した『岩波国語辞典第6版』には、「きしもじん【鬼子母神】仏法を守護し、安産・育児などの願いをかなえるという女神」とありまして、「きしぼじん。訶利帝母。」とあります。
また、これも使い古した『広辞苑第二版』で「きしもじん」を調べますと、「→きしぼ」とありますので、「きしぼ」を調べますと、「きしぼ【鬼子母】鬼子母神。」とあって、(梵語Hariti訶利帝。キシモジンとも)と、あります。「王舎城の夜叉神の娘。千人(万人・五百人)の子を生んだが、他人の子を奪って食したので、仏は彼女の最愛の末子愛奴を隠し、これを戒めた。求児・安産・育児などの祈願を叶えるという。端麗にして宝衣・瓔珞をつけ、一児を懐にし、吉祥果(ざくろ)を持つ。歓喜母。訶利帝母(かりていも)。」とありまして、スライドのように鬼子母神の絵姿を見ることができます。右胸にわが子を抱きかかえておりまして、左手に柘榴を持っております。スライド変えてください。
スライド5(鬼子母神十羅刹女像/長谷川等伯筆)
平成15年、2003年1月15日から2月23日の期間、上野の東京国立博物館で、「立教開宗750年記念 大日蓮展」がございまして、わたくしも家内と参観いたしまして、出口付近の売店で参観の記念に図録を買いました。今、図録を開きますと、長谷川等伯の筆になる「鬼子母神十羅刹女像」を見ることができます。スライドの右の最上部に鬼子母神が、それから左上には、顔が真っ赤なハンシカ大将が描かれています。巻末の解説文によりますと、「鬼子母神のとなりに、配偶神として半支迦大将が立ち、その下方には五段に十羅刹女がならぶ。法華経陀羅尼品では、十羅刹女らが鬼子母神とともに仏前において法華経信者を守護すると誓う。」とあります。夜叉も羅刹も魔物であり、鬼女でありますが、何か事情が生じて、今では法華経信者の守護を誓う神様に変わっている、いうことがわかったわけです。スライド変えてください。
スライド6(図書館で「鬼子母神」を調べる)
実は、同じ年の2003年の秋に、日本仏教社会福祉学会第38回大会が、身延山大学を会場に開催されました。当時、私は学会の本部事務局を預かっておりまして、大会運営委員長は池上要靖教授であったと思いますが、研究発表の申込みが少なくて困っている様子でしたから、「鬼子母コンプレックス」というテーマで、演題を一本申し込みました。
このときは、学会での研究発表ですから、国語辞典というわけにもまいりません。淑徳大学は仏教系の大学ですから図書館の蔵書には経典類も多くございます。調べた中で、『昭和新纂国譯大蔵経』の「解説部第一巻」に鬼子母神の項目がございました。スライドに示しましたが、鬼子母神とは「梵名を訶梨底Haritiといひ、譯して歓喜母、愛子母または青色鬼、鬼子母というてゐる」とあります。サンスクリットでハーリティHaritiには青色の意味があるわけでございまして、鬼子母神は「青鬼」だったことがわかりました。その青鬼の鬼子母神は、「もとは児女を?(=喰)らうほどの悪女であったが、今は佛法守護の善神として佛出家弟子等の住在する處に至り」とあります。鬼子母神は「児女を守ることを以て本務」とされておりまして、懐妊・子育て・安産の守り神とされています。スライド変えてください。
スライド7(Case study は、case storyである。)
仏教社会福祉学会の発表テーマが「鬼子母コンプレックス」という点からもお分かりいただけると思いますが、私の専門分野は、臨床心理学・臨床発達心理学でございますが、臨床心理学、臨床心理士といえば、河合隼雄という臨床心理学者が有名ではなかったかと思います。この河合隼雄の著作集に『物語と人間の科学』というタイトルの著書がございまして、その中に「ケーススタディというのは、ほんとうはケースストリーではないか」との一文がございます。実際、クライアントはカウンセリングの当初、途方に暮れ、茫然自失の状態で、自己を語れないことが多いようです。ところが、カウンセリングの進行に連れて、「自己の物語」が語れるようになります。
他方、物語を喜び、感動しやすいのは子ども時代です。子ども時代の感動の体験は、人格の深層部分に取り込まれて、大人になっても想起されやすい。しかも、物語の形式は、人格の深層部分に届きやすい。臨床心理学、臨床発達心理学の視座からの、そうした見解に立って、鬼子母神に関する経典類よりも、子ども向きの物語が研究資料として妥当なのではないかと考えまして、書庫に入って調べ直しました結果、『仏教説話文学全集』の中の「鬼子母神物語」を選ぶことにいたしました。入手した中で分量が最も多く、物語としての構成がしっかりしているようで、吟味しやすいと考えられたからでございます。それでは、次に「鬼子母神の物語」をご紹介いたします。スライド変えてください。
スライド8(鬼子母神の物語)
「鬼子母神物語」は、鬼子母神の父夜叉にまつわる話からふりだされます。ここで「夜叉」とは、『広辞苑』によれば、「仏法護持八部衆の一つで、もと世人を害し勇健暴悪で空中飛行の鬼神」とあります。鬼子母神の父はサタという名の夜叉であったそうです。むかしのことですが、古代インドのマガダ国の王舎城の郊外の竹林精舎に近い山中に暮らしていたという話です。マガダ国は、パトナやブッダガヤーを中心都市とする古代国家で、首都はラージャグリハ、すなわち漢訳の「王舎城」であります。アジャセの父王ビンビサーラが釈尊に帰依し、当時、仏教が盛んな大国であります。物語は、その大国を守護する鬼神サタ夜叉に誘いがあって、各国に暮らしていた夜叉神たちが懇親の意味で、集会を開くことになって、サタ夜叉はこれに参加いたしました。スライド変えてください。
スライド9(二鬼神の因縁)
当時、マガダ国の北方のハナラ国にはハンシャラという夜叉が暮らしていたそうです。そのハンシャラ夜叉にも集会参加の誘いがあって、これに参加いたしました。この集会で、マガダ国のサタ夜叉とハナラ国のハンシャラ夜叉の二鬼神は、どのような因縁があったのか、「他の鬼神と違って、肝胆相照らして一見旧知のように深く交わりを結ぶようになった」というのであります。有意義な集会は和気あいあいのうちに散会して、サタもハンシャラも再会を楽しみに別れて、早くも一年が過ぎ、第二回の懇親会が開催されることになって、再び相まみえることになり、互いの健在を喜び合ったそうです。その夜のこと、二鬼神の間に、次のような会話が交わされたというのです。
「君、僕らの亡き後も、この付き合いを子孫に続けさせるには、どうしたらよいだろう?」
「僕の考えでは、僕らの子ども同士を結婚させて、親戚関係を結んだなら、この付き合いは継続されると思うのだが、・・・」
「それはよい考えだ!」
というわけで、マガダ国のサタ夜叉とハナラ国のハンシャラ夜叉の二鬼神は、「互いに生まれた子どもを、いい名づけにする約束を固く結んで、右と左に帰って行った。」というのでございます。スライド変えてください。
スライド10(カンキ誕生)
マガダ国のサタ夜叉の妻は、それから間もなく懐妊して、やがて月満ちて、珍しくきれいな女の赤ん坊が生まれたそうです。誕生祝に駆け付けた夜叉の親族・眷属たちは、この赤ん坊を見ると、自然に歓喜の情が湧き起る程に可愛いらしく、多数の夜叉たちが喜び合ったので、その名を「カンキ(歓喜)」と名付けたそうです。一方、ハナラ国のハンシャラ夜叉の妻も懐妊して、男の赤ん坊が生まれ、父夜叉の名前にちなみ「ハンシカ」と命名いたしました。二鬼神はたとえようのないほどの喜びようで、互いに立派な瓔珞、つまり固くて貴重な宝石のネックレス、美しく立派なベビードレスに祝辞を添えて、贈り合ったといいます。
それから一年して、サタ夜叉の妻はまた懐妊して、男の赤ん坊が生まれましたが、このときは、巨象がほえるような鳴動がしたので、男の赤ん坊の名前をサタの山鳴りの意味で、「サタセン」と命名いたしました。カンキとサタセンの姉夜叉と弟夜叉は、ともに無病息災に生育いたしまして、姉夜叉のカンキは婚期が近づき、サタセンも成年に達した年、サタ夜叉は「かりそめの病」がもとで、突然に死んでしまったのでございます。サタセンは、父夜叉の跡目を継ぎ、マガダ国の夜叉としてマガダ国の守護の務めを果たすこととなったわけです。次のスライドお願いします。
スライド11(カンキ異変)
ある日のこと、姉のカンキ夜叉は、父夜叉の跡目を継いだ弟のサタセン夜叉に対し、藪から棒のことでしたが、・・・「わたしの弟よ、王舎城に行って城下の子どもを、掠奪して食べようと思うのだが、どうだろう?」と言い出したのです。サタセン夜叉は驚きました。
「姉さん、何をおっしゃるンです。あなたは気でも狂ったンですか?どうして姉さんは、そんな恐ろしい悪心をおこされたンですか?夢にもそんな悪心をおこしてはなりません。」
王舎城の子どもの掠奪殺害の無謀きわまりない計画を打ち明ける姉のカンキ夜叉に対し、サタセン夜叉は、その悪心をねんごろに、さとし戒めたのです。しかし、物語によれば、「カンキは前世においてこの邪悪な願を起こし、習慣性が強かったために弟の忠言、いさめなどを容易に聞き入れることができず、その日はそのまま終わった」とあります。ところが、その後も再三再四の姉夜叉の邪悪な「願望」を聞かされたサタセン夜叉は、自分の力では如何ともしがたく思われ、諌めるのを断念したというのです。そして、父のサタ夜叉が在世中、姉夜叉には婚約の話ができていた事を聞き知っておりましたので、ハナラ国のハンシャラ夜叉に宛てて、婚約の話を進めてほしい旨の書簡を送ったのです。すると、ハンシャラ夜叉は、息子のハンシカが王舎城のカンキを娶るように「盛儀を設けた」とありますから、結婚式と披露宴を設けたというのでございます。スライド変えてください。
スライド12(カンキとハンシカ)
ハンシカとカンキの仲は、非常にむつまじく、この様子を見てハンシャラも喜んでおりました。ところが、ハンシカとカンキが、ある日、庭をそぞろ歩いていたときのことです。
「わたしは自分の生国の王舎城へ一度帰って、城下の子どもを殺して食べようと思いますが、・・・」と、カンキはハンシカに打ち明けたのです。ハンシカは驚いて、・・・「王舎城はお前の故郷(ふるさと)ではないか? 王舎城の人々を守らなければならない立場ではないのか? しかも、子どもを食い殺すなど、実に恐ろしい。そのようなことを、かりそめにも言うものではありません。つつしみなさい。」と、新妻のカンキをたしなめたのであります。そのとき、物語によれば、カンキは「内心夫に対して憎悪を感じたが、その日はそのまま住処に帰った。」とあります。なぜであるか? 次のスライドお願いします。
スライド13(「カンキボ」と呼ばれる)
そのような行き違いがあったとは言え、夫婦仲は円満だったようで、次から次へと子どもが生まれ、499人の母となったカンキは、カンキボ(歓喜母)と呼ばれるようになったそうです。そして、500人目の子どもが生まれた時、その名をアイジ(愛児)と名付けました。五百の子どもたちが成長するにつれて、物語によれば、カンキボとなったカンキ夜叉は、「子どもの豪強な勢力をたのんで増長し、前に起こした悪心を実行しようと再び夫に相談した」というのですが、ハンシカ夜叉は「断じてならぬ。」と、たしなめたのです。しかし、「カンキはそれを聞き入れなかった」のでございます。しかも、「夫がいかに諌めても妻の悪心を断ち切ることができないのを知って、それからというものは、ハンシカは何とも言わなくなった。」とあります。そして、次の一文がポイントのように思います。「夫のだまっているのを幸い、カンキボは宿願を達するために王舎城へ行った。」というのでございます。スライド変えてください。
スライド14(王舎城の災厄)
王舎城では、毎日毎夜、子どもが何者かにさらわれていく事件が頻発し、子どもを失った親たちは悲嘆にくれ、狂気のようになって、子どもの行方を捜したのであります。
「子どもがさらわれたぁ!」
「わたしの子どもを返してぇ!」
ビンビサーラ王は、直ちに勅を発し、四方の城門を厳重に閉じ、悪鬼の侵入を防いだのですが、門衛の兵士までが行方不明になるなど、王舎城下は人さらいとい恐ろしい事件で真っ暗闇になってしまったのであります。国の政府が、昼夜とも子どもを絶対に外出させてはならないという布告を出しまして、やっと子どもはさらわれなくなったのですが、次には妊娠中の婦人が連れ去られるという恐ろしい事件が続発して、王舎城は国を挙げての重大事件へと発展したのでございます。スライド変えてください。
スライド15(歓喜母ではない/鬼子母だ!)
このように国中の人々が心痛めているとき、王舎城を守護する神が人々の夢に現れて、
「お前たちのかわいい子どもは、みな、夜叉カンキボのために食い殺されたのである。」と、お告げがあったのだそうです。夢に現れた守護神は、「お前たちがこの災厄を除こうと願うなら、お釈迦さまのところに行って懇願するがよい。お釈迦さまは、必ずお前たちの苦しみを取り除いてくださるにちがいない。」と、告げたそうです。多くの人々が、同時に同じ夢を見たものですから、人々はカンキボではない、鬼子母と名を変えた方がよい、と口々に噂するようになったといいます。スライド変えてください。
スライド16(釈尊に懇願する)
子どもを失った王舎城の人々は、夢のお告げを信じ、釈尊のもとを訪れ、わが子の鬼子母による掠奪殺害事件について、この苦悩を無くしてくれるように、必死に、懇願したのであります。「世尊、なにとぞ、この災厄から我々をお救いください!」と、一同平身低頭して哀願したのです。釈尊は人々の哀願を聞いて、黙ってうなずかれ、哀願を受諾されたのであります。スライド変えてください。
スライド17(釈尊介入)
その翌朝、釈尊は、いつものように袈裟を纏い、手に鉢を捧げて王舎城を乞食(こつじき)して歩き、いったん竹林精舎に戻って食事をすませてから、あらためて、なんと単身で鬼子母夜叉の棲家に赴かれたというのであります。鬼子母夜叉は子どもをさらいに行って留守であったそうです。釈尊は、鬼子母夜叉の500番目の末っ子の、可愛い盛りのアイジを、遊んでいた二人の兄弟の目の前で、神通力によって鉢に隠し、竹林精舎に連れ去って隠しておかれたというのでございます。スライド変えてください。
スライド18(アイジ捜索)
子どもを盗むことができずに帰宅した鬼子母は、いつも一番に飛んで来るアイジの姿が見えない。「お前たち、アイジを知らないかい?」と、兄弟に行方を尋ねると、「僕たちは、ここで遊んでいたの、お坊さんが来て、アイジは消えてしまったの、・・・。」と要領を得ない。兄弟もアイジの姿が見えないので心配そうに答えた。鬼子母夜叉は、心配で、心配で狂乱状態となり、そのまま王舎城に向かって、足の向くまま、心の命ずるままに捜し歩いたのであります。
「アイジよ、アイジよ、ア、イ、ジ、よゥ〜!」と、大声で泣き叫びながら、村々を捜し歩き、四方の山々、海に至るまで探し求めたが、アイジの行方は知れない。死体を探し出すこともできない。探しつかれ、悩み疲れ、鬼子母夜叉は髪をかぶって裸のまま、地上を転げるように、肘や膝で歩いては休み、休んではまた起きて、いざり歩き、ついに、天上界の帝釈天王の善見城に辿り着いたというのです。しかし、城門の守衛の夜叉神に入場を拒絶され、やむなく「多聞天」を頼って、疲れた足をひきずり、ひきずり、悲しく泣き叫びながら、・・・ スライド変えてください。
スライド19(多聞将軍に哀願)
鬼子母夜叉は、疲労困憊して、大石の上に、どっと倒れ伏し、悲しく泣き叫びながら、多聞天に哀願いたしました。「多聞将軍、私のいとし子がさらわれました。どうぞ、居所を教えてください。この通りでございます。」と、哀願いたしますと、多聞将軍は、「そんなに泣き悲しまずに、お前の家に誰が来たか考えてみるがよい。」と言われたのでございます。鬼子母夜叉は、はっとして、「僧の喬曇摩」が来たことを思い出すのでありました。僧の喬曇摩とは、ゴータマ、釈尊その人のことであります。鬼子母夜叉は、多聞天に厚く、厚く感謝して、自分の住処(すまい)にも立ち寄らずに、急ぎ竹林精舎の釈尊のもとへ赴いたのであります。スライド変えてください。
スライド20(釈尊の教戒)
竹林精舎に入ったキシモ夜叉は、遠くから「仏の姿」を見ただけで、「知らず識らずに、はっとなって、今までの悪行や迷いの雲が晴れて喜びあふれて、たえて久しい善心が突然として起こった。」というのであります。絶えて久しい「善心」が突如として生じたというのでありますが、なぜであろうか?
鬼子母夜叉は、釈尊に恭(うやうや)しく拝礼して、申しました。
「世尊よ、わたしはアイジを何者かに盗まれまして、今も行方がハッキリしません。それで悩みに悩んでいるあわれな夜叉でございます。どうか世尊の大慈大悲のお力によって、アイジを得ることができますようにしてください。お願いでございます。」と、心から釈尊に懇願したのであります。その直後に、釈尊の教戒が始まります。そこに、わたしは仏教カウンセリングの一つの原型を見ることができると、思うのであります。スライド変えてください。
スライド21(鬼子母の悔悛:「何とも相すみません」)
「お願いでございます」「お助けください」との鬼子母の懇願を聞いた釈尊は、「それは気の毒なことだ。」と、わが子に会えない鬼子母の苦しみをシッカリと受容します。
「ところで、お前には何人の子があるのかね?」
「五百の子がおります。」
「それほど多くの子があるなら、そう苦悩して探すに及ぶまい。」
「いくら大勢の子がありましても、子はみな平等に可愛いものでございます。」
「大勢の中で一子を失ってすら、それほどお前は泣き悲しむのに、一人二人の子を持つ親の子をなぜに取って食ったのか? なぜ他人の子を食ったのか?」
すると、鬼子母は即座に答えます。
「何とも相済みません。悪いことをいたしました。」
ここに至って、「子を持つ親の心は誰でも同じなのだ」という釈尊の一言が鬼子母の身に沁みたのであります。身に沁みてわかるとは、心からわかるということであり、相手側の立場に身を置いて考えることのむずかしさを意味するものであります。臨床心理学では、戸川行男が人間に関する基本的信仰の一つとして「立場の可逆性の信仰」を指摘しております。スライド変えてください。
スライド22(鬼子母の悔悛:心は顔に現れる)
釈尊は、鬼子母に言われたそうです。「悪いことがわかったか? 愛する者と離別する苦悩を体験したであろう?」
すると、鬼子母は、「これもわたしの愚痴のためでございます。なにとぞ、改心いたしましたから、ご教示を願います。」と懇願します。
懇願する鬼子母に対し、「前非を悔い改めたならば、王舎城の人々に、恐れのない徳を施すという誓約を立てて、それを実行するならば、アイジを与えようが、実行できるか?」
「お諭しのように、誓約いたしますので、どうかアイジに合わせてください。」
しかし、それでも釈尊が鬼子母に愛児を渡す気配は見られなかった。鬼子母夜叉があやまちを改めて、善に向かう心が顔に現れたのを看破して、前非を悔い改め心を入れ替えたのを確認せられて、はじめて釈尊は鉄の鉢の中に隠して置いたアイジを出して、夜叉に見せたところ、鬼子母夜叉の喜びは限りなく、釈尊の教戒の如く、五戒をよく守り、城中の人々に安楽を与えることを誓って、これを実行したのであります。スライド変えてください。
スライド23(鬼子母の子育て)
悔い改めたとはいえ、500人の子どもを養うことは、並大抵のことではありません。鬼子母は釈尊に、「わたしおよび子どもたちは、何を食べ物としたらよろしいでしょうか?」と、口調も改まって、尋ねたそうです。これに対し、釈尊は、・・・
「食事時になったら、食盤に食べ物を盛って、お前の名を呼ぶほどに、心配は無用である。以後、昼夜にわたり竹林精舎の守護に励むがよい。」と述べられたそうです。
さて、以上で「鬼子母神の物語」は終わり、と、思いきや、まだ続きがございます。スライド変えてください。
スライド24(釈尊の「臨床講義」:阿難が尋ねる)
鬼子母が改心して変貌した「臨床場面」を、目撃することができた「仏(ほとけの)弟子」が多数おりましたが、これを代表して阿難が釈尊に尋ねたのでございます。
「世尊よ、あの鬼子母は、五百の子を生みながら、王舎城の子どもを食い殺すような悪行を、なぜいたしたのでしょうか?」
ここから、釈尊による、いわば「謎解き」が始まる。大学医学部の階段教室で開講される「ポリクリ」、つまり「臨床講義」が始まったわけであります。それは、「牛飼いの妻の物語」でありました。事例研究のプレゼンテーションが始まったと考えることができます。
それでは、その「牛飼いの妻の物語」とは何か、それは「鬼子母神の前世譚」であります。鬼子母神の時間を遡った「前世の物語」とは、すなわち「牛飼いの妻の物語」ですが、その物語は、いったい何を意味するものであろうか? 臨床心理学・臨床発達心理学の視座からは、「深層意識の物語」、鬼子母神の心の深層を意味する物語と考えられます。仏教心理学、唯識論や大乗起信論の「細麁」の細、これは極めて微細な意識で、普通の人、わたしたちには意識が困難な深層意識の物語であると考えることができます。スライド変えてください。
スライド25(細麁:仏教心理学の深層意識)
「牛飼いの妻の物語」は、鬼子母の深層意識の物語であります。それでは、仏教では深層意識を、どのように考えているのか? 本日の講演の準備をしていて、あれやこれや考えまして、スライドのような「表」を仕立ててみました。心を「識」として、その全体像と言いますか、丸ごとの心というもの、それは多層構造をなしているように考えられます。「第一識」から「第九識」まで、次第に深くなり遠くなる。次第に暗くなり見えにくくなります。細麁の「細」は、第七識以下の末那識、阿頼耶識、大乗起信論では阿梨耶識と申します。そして第九識、阿摩羅識となっております。また、「麁」は粗いという意味で、普通の人が日常的になじんでいる表層意識、すなわち第一識から第六識までが表層意識で、眼識、耳識、これは遠感覚によるものです。次に、鼻識、舌識、これは近感覚によるものです。第五識が身識で、皮膚感覚、身体感覚、深部感覚と言って内臓感覚によるものです。第六識の意識は考えた「こと」や「もの」、表象と言いますが、イメージやシンボル等、言葉や概念や理念などがございまして、これには思い出す、思い浮かべる、あるいは思い描く働き、記憶の記銘や再生の働きがございます。
第七識から深層意識です。末那識は「自我」の働き、個人的な深層意識で、自利にこだわりやすくなるのも末那識の働きによるものです。たとえば、釈尊はアイジを鬼子母に渡すのを躊躇されていましたが、それは鬼子母の末那識世界が見えていたことによると思われます。次の第八識になりますと、人類共通の深層意識で、動物にも通じる心ですから、私は「動物心」と呼んではどうかと思っております。論語が出典ですが、「狂狷の人」の狂と狷の漢字には「けもの偏」が付いています。たとえば、わが子を捜し歩く鬼子母は、阿頼耶識が生み出した狂気の姿かと思います。謡曲「隅田川」で、掠奪されたわが子を探す狂気の母親が登場しますが、隅田川でしたいと対面して、これを埋葬しています。第九識は、いのちあるもの全体に共通する深層意識で、「植物心」と呼んだらいかがかと思います。昔、学生時代に岩波文庫の『百科全書』を読んでいたとき、フランス革命の時代の出版物ですが、「植物心理学」とありまして、これには当時、不可解な気がいたしましたが、後に謡曲「高砂」の「相生の松」が実は植物の精霊でありまして、わが国では古来、植物の心も考えられていたことに気づかされたのであります。さらに、地球という惑星を考えましたとき、地球が属する太陽系、銀河系、さらに超えて128億年昔の宇宙誕生以来の広大な世界を考えるならば、第九識より、さらに深い超深層意識も考えられる、と思われます。
それでは、「牛飼いの妻の物語」をご紹介します。スライド変えてください。
スライド26(「牛飼いの妻の物語」:鬼子母の深層世界)
むかしむかしのことである。王舎城に牛飼い人が暮らしていた。その妻は、結婚後まもなく懐妊した。あるとき、王舎城に大設会の催しがあった。城下の人々五百人は互いに服装を美しく整え、音楽を奏でながら、大設会の会場指し、行列を作って出かけた。その途上、かの懐妊している牛飼いの妻が、牛乳の瓶を持ち運んで来るのに出会った。
「ご家内、どうです。ここで一緒に舞踊して楽しもうではありませんか?」と五百人の城下の人々は口々に、その妻に勧めた。牛飼いの妻は、快諾したので、五百人の連中はおのおの手にした楽器を奏でながら、囃し立てた。牛飼いの妻は懐妊していることも忘れて、目をあげ、眉をあげ、手足を振って夢中に舞い踊った。ところが、臨月に近い身体を急激に運動させたため、ついに堕胎してしまった。これを見た五百人の連中は、大変なことになったと思ったのですが、残酷にも、地上に倒れて苦しんでいる牛飼いの妻を見捨てて、そのまま、そそくさと会場目指して立ち去ったのである。スライド変えてください。
スライド27(憎悪・怨念の情が湧き上がる)
一人取り残された牛飼い人の妻は、自分の不心得によるものとはいえ、この苦しみをどうしたらよいか。城下の五百人の無情な仕打ちに対し、何としたらよいかと、思い悩んでいたのであるが、そのうち憎悪と怨念の情が湧き上がってくるのを感じていた。ちょうど、そのとき、たまたま、その傍らを果物売りが通りかかった。
「もうし、果物屋さん、あなたのマンゴーの実を、この牛乳で五百個買いますから、売ってくれませんか?」と、呼び止め、果物売りからマンゴーの実を五百個買い取った。スライド変えてください。
スライド28(牛飼いの妻の悪願)
と、そのとき、牛飼いの妻は、路上に威儀堂たる「覚者」を見たのである。その覚者に対し、マンゴーの実五百個を供養し、覚者は供養のお礼として、教法を説くべきであるのに、特に、神通力を現して利益を与えようと考えて、「不思議な神変」を見せたのである。牛飼いの妻は、大樹が地上に崩れ落ちるように心を奪われてしまい、「来世には王舎城に生まれた城下の子どもを、みな、取り殺して喰らう」という「悪願」をかけたのである。スライド変えてください。
スライド29(恐るべき悪行の願望を起こした牛飼いの妻)
重要な場面なので、繰り返しましと、牛飼いの妻は、深く強く覚者にあこがれ尊重するようになって、大樹が地上にどっと崩れ落ちるように、その身を大地にひれ伏し、「わたしはこの覚者にマンゴーの実を供養した功徳によって、来世には、この王舎城に生まれて、城下の人々が生んだ子女をみな取り殺して喰らう」という、恐ろしい「悪願」をかけたのである。
さて、この路上において、恐るべき悪行の願望を起こした牛飼いの妻というのが、今ここに来ている、かの訶梨帝夜叉・鬼子母夜叉の前身である。
悪業(悪行)には悪い報いがあり、雑業には雑な報いがあり、白業(善行)には善い報いがある。ゆえに、白業を修行して、黒や雑の業をはなれねばならない。・・・と釈尊はねんごろにさとされた、とのことでございます。スライド変えてください。
スライド30(鬼子母大善神)
それから後、王舎城の人々から恐れられていた鬼子母は、仏の戒(いまし)めに基づいて心を入れ替え、仏に誓った如くに、王舎城の人々を守護し、亡きサタ夜叉が国を守護したように、よく国を守ったとのことであります。先に引用の『広辞苑』には、鬼子母神とは「一児を懐にし、吉祥果(ざくろ)を持ち、求児・安産・育児の女神として崇められる」とありますように、鬼子母大善神となったのであります。スライドは、円城寺(三井寺)の鬼子母神像でございます。
さて、「鬼子母神物語」の結びは、「鬼神も鳴かずば撃たれまい。このように鬼神でさえも仏の心に導かれ、それを守るならば、神として後の世の人に崇められるという、ありがたい物語である。」というものであります。鬼神は空を飛ぶというが、キジ(雉)も空を飛ぶ。そのキジも鳴かないなら、猟師に鉄砲で撃たれることもない。同じように、鬼子母神も激しく泣き叫びながらアイジを捜索したから、お釈迦さまに救われて大善神となった、ということであろう、と思います。スライド変えてください。
スライド31(考察1 物語の臨床心理学的構成)
それでは、考察に入ります。最初に「考察1」として、鬼子母神物語の臨床心理学的構成について、考えた諸点を申し上げます。物語は、釈尊の初転法輪に出て参ります「四聖諦」、すなわち苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦、苦滅道聖諦の4つの柱から構成されているように考えられます。それは臨床心理学、というより医学における、症状、診断、病理、治療の4つのカテゴリーに対応していると考えられます。次に、佛教大学の安藤治教授の『心理療法としての仏教』(法蔵館)を参考にして、順次、考えてみたいと思います。スライド変えてください。
スライド32(考察1・1 症状:苦聖諦)
第一番目の「苦聖諦」ですが、苦とは何か? 苦の概念、苦の定義の問題、すなわち問題症状の本態を扱っております。クライアントは、鬼子母夜叉と、わが子を掠奪殺害された父母で、主訴は「愛別離苦」にある。なお、恐怖と不安でパニック状態に陥った王舎城の人々に対しても手当てが必要ではないかと考えられます
まず、鬼子母ですが、釈尊の介入によって、苦悩が始まります。次に、鬼子母によって子どもを掠奪され、殺害された王舎城の父母、被害者となった父母もまた苦悩します。さらに、日々、子どもがさらわれる事件によって、王舎城の人々は恐慌・混乱状態に陥り、苦悩します。これら三者の苦悩を合わせれば、「四苦八苦」となるわけでしょうが、いずれも、われわれとしては弁えておくべき事柄とされております。スライド変えてください。
スライド33(考察1・2 診断:苦集聖諦)
二番目の苦集聖諦とは、「集」が「集まり起こる」の意味ですから、問題症状の発生集起の原因または理由を示しています。原因・理由は何か、査定・診断が行われます。鬼子母は、アイジ捜索に疲れ果て、天上界で多聞天の見立て、すなわち診断を受けます。その原因は、おそらく、渇愛にある。渇愛とは、渇きに苦しむ人が激しく水を求めるような、激烈な欲求を意味します。多門将軍の眼には、渇愛に苦しむ鬼子母の姿が見て取れたのです。それで、竹林精舎の釈尊のもとへ、いわば紹介されたわけです。次に、被害者である王舎城の人々に対しては、王舎城の守護神が夢に現れて、いわば、原因が査定診断された結果が、人々に告知されたわけです。被害を受けた人々もまた、激烈な渇愛と憎悪の情が明らかで、このような困難なケースであればこそ、竹林精舎の釈尊のもとへ紹介されたものと考えられます。なお、渇愛と憎悪の底には、貪瞋痴の三毒として知られている「煩悩」が考えられるわけで、実に根の深い、奥深い心の問題があると考えられます。スライド変えてください。
スライド34(考察1・3 病理:苦滅聖諦)
物語によれば、鬼子母の病理は、「過去世」の「悪行願望」にあります。個人的な憎悪・怨恨から、悪行願望が成立していて、このとき、覚者の対応は、牛飼いの妻にとって不運であったと言わざるを得ません。悪行願望がいったん成立しますと、これは世代を超えて継承蓄積され、人格の最も奥まった深層意識、阿頼耶識に内蔵されます。これが、後に指摘する「鬼子母コンプレックス」です。
苦滅聖諦は、渇愛や煩悩の束縛を解脱し、執着を捨て去った「悟りの境地」を意味するようですが、ここで、理知的な表層意識における迷いである「見惑」は、論理的な思考によって、断ずることができるとされています。ところが、情意的な深層意識における迷いである「修惑」は、習慣的な悪癖や習性となって、容易に断じ得ないというのです。物語の中でも指摘されているように、鬼子母の問題症状は習慣的なもので、根が深く、断じるに困難なレベルのものと考えられます。たとえば、鬼子母の異変をサタセンもハンシカも、ともに受け止め切れていません。それは、「前世において、この邪悪の願を起こし」、「習慣性が強かったため」であるとされ、このことは情意的な深層意識の迷いである「修惑」のためと考えられます。スライド変えてください。
スライド35(考察1・4 治療:苦滅道聖諦)
それでは、釈尊は、どのような治療方法をとったのか? なんと、驚くべきことに、単身、鬼子母の住処(すまい)に赴き、可愛い盛りのアイジを連れ去るという、今日の虐待事件での法的介入にも相当する荒療治を行っております。
苦滅道聖諦は、種々の煩悩を滅ぼすための方法や手段ですが、経典には、八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)が挙げられています。鬼子母神の物語では、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)を実践しています。興味深いのは、まず釈尊は、今日の児童虐待事件の法的介入の如く、釈尊の介入によって、鬼子母は愛別離苦の苦悩に、狂ったようになってアイジを捜索して疲れ果て、ついに天上界の多聞天に懇願し、多聞天の見立てで、釈尊のもとを訪れ、教戒を受け、「五戒」を実践するとともに、謝罪・贖罪の道に入り、やがて、実に鬼子母大善神に変身したものと考えられます。
他方、王舎城の人々に対しては、仏の弟子たちが手分けして、個々に相談指導にあたり、教戒を授け、城中総出で、厳粛に供養が営まれ、その後も世代を超えて供養が継承され続けてきたものと思います。スライド変えてください。
スライド36(考察2 鬼子母(=青鬼)の性格)
考察2は、鬼子母神の性格について考えてみます。子どもを取って食らうという悪行は、性格によるものなのか? 鬼子母はどのような性格であったのか? そのヒントは、鬼子母神のサンスクリットの意味によれば、鬼子母神が「青鬼」だった点にあります。また、前に触れましたが、長谷川等伯の「鬼子母神十羅刹女像」で、配偶神のハンシカ大将は「赤鬼」として描かれています。ところで、日本昔話には、青鬼と赤鬼が登場します。たとえば、浜田廣介の「泣いた赤鬼」の物語は、ご存知と思います。要約すれば、「心の優しい赤鬼が、村人たちと仲良く暮らしたいと思っていた。友達の青鬼は、なんとか、その願いをかなえてやろうと悪者のまねをして、赤鬼に花を持たせる」という、そういう物語です。青鬼は、友の願いをかなえるために、悪者のまねをします。赤鬼の態度はユングのいう「外向型」で、青鬼は「内向型」のように見受けられます。スライド変えてください。
スライド37(青鬼と赤鬼)
「泣いた赤鬼」の物語によれば、青鬼と赤鬼は親友です。青鬼は赤鬼の心という「内部世界」に関心が向きやすい。一方、赤鬼の願いは、「外部世界」の村人たちに親しむことにあります。青鬼は内向的で、赤鬼は外向的です。内向的な性格の青鬼は、思考に思考を重ねて、悪役を申し出で、赤鬼の願いをかなえます。
この童話からは、赤鬼の性格特徴はクレッチマーのいう「同調性気質」で、青鬼は「内閉性気質」のようです。同調性気質の赤鬼は、決して心を閉ざさない。悲しいときに慰められれば共に泣き、うれしいときには共にはしゃぎます。これに対し、内閉性気質の青鬼は、閉ざされた外界には鈍感ですが、心の中にいったん刺激が入り込むと耐えられないくらいに傷つき過敏になり、周囲の人からは理解され難い「謎の存在」となりがちです。この青鬼が友である赤鬼の悩みを聞いてしまって、耐え難いほどに気になって、毎日毎日、頭を使い、論理的に思考して、思考に思考を重ねて、そのようにして得られた結論を赤鬼に示します。赤鬼は喜んで、青鬼が悪役の、シナリオに沿って、青鬼を打ちのめすリハーサルに繰り返し打ち興じます。実に、赤鬼は情意的で、青鬼は理知的です。
赤鬼と青鬼は、いわば「二つの半分」です。トムとジェリー、シルベスターとトゥイーティ、アンパンマンとバイキンマン、森永製菓の創業者・森永太一郎と二代目社長・松崎半三郎、・・・女と男、妻と夫、母性と父性、・・・、二者の関係をユング心理学では補償関係と言います。ことによると、文殊菩薩と普賢菩薩、多宝如来と釈迦如来も、補償関係にあると言えるのではないでしょうか? スライド変えてください。
スライド38(頭光と身光)
スライドは奈良東大寺の大仏、盧舎那仏です。ご存知と思いますが、光背の一つは頭光といって頭部・白毫から発し、もう一つは身光といって身体の中心・臍下丹田あたりから発しているように見えます。解剖学者・三木茂夫は「頭と肚」と言っておりまして、これは大脳と内臓にあたり、心は大脳系よりもむしろ、内臓系が重要である、と言っております。また、「あたま」と「こころ」とも言っておりまして、「こころ」に重きを置いております。中枢神経系(大脳)は理知的な表層意識を支配し、自律神経系(植物器官)は情意的な深層意識を支配していて、それぞれ「一つの半分」ではないかと考えられますが、本当に重要なのは情意的な深層意識ということになります。
物語によれば、赤鬼は当初、青鬼の心の内部を深く読み取ることができなかったのです。同じように、鬼子母の重大な打ち明け話に対して、サタセンとハンシカは、これをしっかり受け止められなかったばかりか、その表層的で、薄っぺらな対応に鬼子母はイライラしていたに違いないのであります。鬼子母の重大な打ち明け話には、実は「深い理解」が欠かせないわけです。スライド変えてください。
スライド39(考察3 鬼子母の発達段階)
話を変えます。考察3では、鬼子母の発達段階について考えてみたい。第1段階から第4段階まで4段階、考えられます。第1段階では、サタ夜叉の一族・眷属が「歓喜」をもって鬼子母の誕生を迎えております。鬼子母「歓喜」の段階です。第2段階は、思春期に入って鬼子母に異変が生じます。「異変」出現の段階です。第3段階は、釈尊の介入があって、鬼子母は形相も凄まじくアイジの捜索にあたります。鬼子母「鬼形」の段階です。第4段階は、釈尊の教戒を受け、やがて安産・育児の善神として崇められるようになる。鬼子母「善神」の段階です。以上の4段階で、母性はどのように登場してくるのか? また、母性とは何か? 考えてみたい。それでは、順次、説明します。スライド変えてください。
スライド40(考察3・1 鬼子母「歓喜」の段階)
赤ん坊は、ただ一方的に世話を受けているわけではありません。赤ん坊との関係は、ワンウェイではなく、トゥウェイの関係です。赤ん坊はケア(care)を受けますが、逆に赤ん坊は、歓喜をもたらします。赤ん坊は、私たちをしあわせにします。赤ん坊からみれば、ケアをもたらす効果、働き、力があるわけで、こうした能力を発達心理学ではコンピテンス(competence)と呼んでいます。ここで、注目していただきたいのは、物語で、後年、人に災厄をもたらす鬼子母であっても、歓喜をもたらす赤ん坊として生れてきた点は、留意しなければならない、ということです。それだからこそ、物語の最後で、鬼子母という恐ろしい境涯を潜り抜けて、いわば、「母性のシンボル」としての「鬼子母大善神」となった点もまた重要だと思います。スライド変えてください。
スライド41(考察3・2 「異変」出現の段階)
思春期に入ると、生理的異変が生じます。今は、ていねいな性教育が施されていて、それほどの戸惑いはないでしょうが、それでも、一人一人の問題としては「異変」を体験するわけで、無視できません。カンキは、夜叉の娘でしたから、角が生えてきたわけです。しかも、内面的な問題としては、王舎城の子どもを喰らいたいという欲求が自覚されるようになって、たいへんな戸惑いの経験をしているわけです。その欲求は、カンキ夜叉の心の奥底から湧き上がってきたものであったわけで、このような事態で、物語の中に、母親や年配の女性が相談相手として登場していない点は、鬼子母にとって不運な話と言わなければならないでしょう。
ところで、この事態に対し、弟夜叉サタセンは、姉の内面的な問題に心配りができていません。次に、結婚して再び異変が生じますが、このときも、夫のハンシカはサタセン以上の対応ができていません。ただ驚くばかりで、適切に対処ができていません。異変の奇怪さに驚いて、諭すのが精いっぱいといったところでしょうか。これもまたカンキにとって、不運な話と言わざるを得ません。ところで、母性には「食べてしまいたいくらい可愛い」というフレーズのように、肯定的側面と否定的側面があるようです。鬼子母「異変」の出現段階では、母性の否定的側面が登場していると考えられます。スライド変えてください。
スライド42(考察3・3 鬼子母「鬼形」の段階)
鬼子母「鬼形」の段階は、「母性」の肯定的側面が非常に激しく登場して参ります。わが子アイジを失った鬼子母は、わが命に代えても、何としてもアイジを取り戻そうとして、狂ったように、わが子を探し求めます。私は、寺社を参拝の度に狛犬を見上げます。大きく口を開けて咆哮する「阿形狛犬像」に対し、きつく口を閉じた「吽形狛犬像」の姿に、母性を思います。「阿形」はゴジラのように火炎を吐き、すべてを焼き尽くす。「吽形」は、火炎をも含んでたじろぐことなく、やがて新しい命を生み出す。文明と文化、精神と魂の対比が考えられます。母性は、激しく強く執拗な阿頼耶識、「魂」の働きによるものではないかと思うのです。スライド変えてください。
スライド43(考察3・4 鬼子母「善神」の段階)
繰り返しますが、ユング心理学では、母性と父性は補償関係にあると言います。そして、両極端の心性の統合を自己実現(self-realization)と呼んでおります。鬼子母「善神」の段階には、母性でも父性でもない「第三の道」、自己実現の仏教的意味を伺うことができるように思われます。横須賀社会館の阿部志郎師は、「弱さを抱えた強さこそ、21世紀の(社会福祉の)パラダイムでなければならない」と説いております。赤ん坊を抱えた鬼子母神の姿は、弱さを抱えた強さの象徴であり、母性のシンボルと考えることができます。淑徳大学を創立した長谷川良信は、西巣鴨のスラム街に移住してスラム改善に尽くしましたが、社会事業を「社会的母性」の具現化と呼んでおります。スライド変えてください。
スライド44(考察3・5 母性とは何か?)
河合隼雄によれば、ユングは、母性の表象が普遍的無意識内に、人類に共通のイメージ、心のプロットタイプ、「元型」として存在すると仮定し、これをグレート・マザー(太母)と命名しております。このグレートマザーは、農耕民族の地母神信仰に由来があるようです。地母神は「生の神」であると同時に「死の神」であり、日本神話のイザナミの神は、すべてのものを生み出す母なる神ですが、後には黄泉の国に下って、死の国を治める死の神となっています。このように、母性は肯定、否定の両側面をもっている。
鬼子母神の物語は、「母性の二面性を見事に示している。はじめ、子どもを食うのを恐れられていた鬼子母が、仏様の教えを受けて、子どもの守護者として訶梨帝母となる」のですが、このような母性は、「現代の女性の心の深層にも存在するものである」と、河合隼雄は書いております。スライド変えてください。
スライド45(考察4 鬼子母「異変」の根源:鬼子母コンプレックス)
考察4は、鬼子母「異変」の根源は何か? という点について考えてみたい。
サタセンに「王舎城の城下の子どもを掠奪して食べようと思うのだが、どうだろう?」と尋ねる鬼子母の心の奥底には「牛飼いの妻の怨恨」の焔(ほむら)が燃え上っていた、と推察することができます。鬼子母の心の奥底の、阿頼耶識から噴き上がって来た「牛飼いの妻の願望」こそ、異変の根源と考えられます。これを、鬼子母コンプレックスと呼びたいと思います。また、結婚後、ハンシカに「私の故郷(ふるさと)の王舎城に一度帰って、城下の子どもを殺して食べようと思います」と打ち明ける鬼子母の心の奥底には、これもまた阿頼耶識から噴き上がって来た「牛飼いの妻の願望」があって、これが異変の根源であろう、と思われます。夫のハンシカに「そのようなことを、二度とかりそめにも言うものではありません」とたしなめられても、繰り返し、深層意識の奥底からコンプレックスは表層意識に立ち上ってくる。これを、鬼子母コンプレックスと呼びたいと思います。スライド変えてください。
スライド46(考察4・1 コンプレックスと日本語の「こころ」)
それでは、コンプレックスとは何か? 河合隼雄の『ユング心理学入門』によれば、コンプレックスとは、「無意識内に存在し、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まりを、ユングはコンプレックスと名付けた。」とあります。このコンプレックスの概念は、日本語の「こころ」の意味に対応しているように思います。『日本国語大辞典』の「こころ」の項で、(石橋湛山の甲府中学時代の恩師)大島正健は「こころ」の語源について「コル(凝)の義を強めてコの字を重ねた語ココルのルをロに転じ名詞化した語」と説明しております。日本の国生み神話では、日本列島はオノコロジマと呼ばれています。楠山正雄の『日本の神話と十大昔話』によれば、「海の潮が自ずと凝り固まってできた島だというので、この島を自凝島と申します。」とあります。深層意識内において、牛飼いの妻の怨恨の「感情」によって、自ずから凝り固まってできた心的内容が「牛飼いの妻のコンプレックス」でありますが、これが鬼子母の意識世界に繰り返し噴きあがってきて、ついに子ども殺害の事件が発生する。このときの、鬼子母の異変の根源を、鬼子母コンプレックスと呼ぶのでございます。
鬼子母コンプレックスは、鬼子母にとっては、意識外のことで、心の奥底の話です。牛飼いの妻の城下の人々に対する怨恨が、城下の子どもを殺して食べるという悪願となり、その悪願の複合観念こそ「鬼子母コンプレックス」であり、それは鬼子母の深層意識から噴き上がってくるばかりでなく、今の時代の、女性の心の深層にも存在するものと考えられます。スライド変えてください。
スライド47(考察5 どうして「絶えて久しき善心が突然として起こった」のか?)
考察5は、鬼子母に、どうして「絶えて久しい善心が突然として起こった」のか? このことを考えてみたい。井筒俊彦の『意識の形而上学〜大乗起信論の哲学〜』によれば、大乗起信論では、不生滅の心真如と心生滅の現実世界の関係を「風と水の比喩」で説明しております。ここで心真如を善心とし、心生滅を悪心として考えてみます。風が「動性」であれば、水は「湿性」を意味します。水は、本質的に「湿」でありますが、「第二次的・偶有的様態」として、風が吹けば「動」に変わります。したがって、風がやむとき、水の「動相」、すなわち「波浪」は消えますが、水の本性的様態である「湿相」は決して消えません。カウンセリングで、苦悩するクライアントの本性的様態は善に向かう心にあると考えられます。クライアントの苦悩の原因が消えれば、すなわち煩悩の炎が消えれば、苦悩は消えますが、善に向かう心まで消えるわけではない。必ず善心は起こってくると信じて取り組むことが、仏教カウンセリングの基本ではないか。大罪を犯した鬼子母ではあるが、仏教心理学の観点からは、必ず善心が起こると信じて、どこまでも信じて、風に立ち向かう力を養わなければならない。スライド変えてください。
スライド48(考察5・1 鬼子母の発心)
「善心が突然として起こる」といっても、それは、どのようにして起こるのか? 井筒俊彦の『意識の形而上学』によれば、「一心」は、A領域とB領域からなり、A領域は心真如の世界、すなわち変わることのない不生滅の世界、永遠の世界で、「仏心」とか「自性清浄心」といわれる。それは意識を超えた世界であります。他方、B領域は心生滅の世界、現実に生滅し、変転する世界で、衆生心と呼ばれる。次に、この「私」は、生滅流転するB領域の現実世界に生まれ育ち、「今」の私がある。その私の心には、生滅流転する心と、不生滅の心との、二つの心のほかに、二つの心に跨る心がある。A領域とB領域に跨る中間領域、これをM領域とすれば、M領域はAとBの和合識、唯識論では阿頼耶識、大乗起信論ではアリヤ識と申します。大乗起信論のアリヤ識は、二岐分離的であり、双面的である。スライドの右の図をご覧ください。MからBに向かっては、生滅流転の道であって、迷妄心が渦巻く衆生心に至る。一転、MからAに向かっては、向上還滅の道で、仏心または真如心に至るというのです。鬼子母は、釈尊の姿を遠く、見ただけで、「絶えて久しい善心が起こった」というのですから、MからAに向かう向上還滅の道を発見したことになる。「発心」とか「回心」と言ってよい。スライド変えてください。
スライド49(考察5・2 鬼子母の贖罪)
罪を犯したことに気づいた鬼子母は、釈尊の教戒を守り、謝罪し、そして贖罪の道に入った、と私は思います。しかし、戸川行男の『善の心理学』には、「殺された人を生き返らせる方法はない」、「与えた苦しみを帳消しにする道はない」、「贖罪は、過去に与えた苦痛や損害への弁償」ではすまされない。「腹を切るという武士道の倫理」や、「金銭であがなうことのできる贖罪を別とすると、大抵の罪に対しては、贖罪ということは、不可能なことなのである」、そうでれば、残された道は、ひたすらに「こちら側の道徳的向上にある」としか言えないと書いております。それでもなお、鬼子母の罪は、生涯をかけても償うことはできない、と思います。それであればこそ、釈尊を信じて、鬼子母は、MからAに向かう道を、向上還滅の道をひたすらに進んだのです。MからAの向上還滅の道は、悟りへの道と言われる。しかし、井筒俊彦は『意識の形而上学』で、「悟りはただ一回の事件ではない」と書いています。「不覚から覚へ、覚から不覚へ、・・・」、悟りは何回も繰り返される。鬼子母の贖罪の旅も、何度も何度も繰り返されて、「鬼子母大善神」として崇められるに至ったのであろう、と思うのです。スライド変えてください。
スライド50(むすび;人間にとって倫理とは何か?)
戸川行男は『善の心理学』の中で、「人間にとって倫理とは何かの問いは、多くの自己の悪の自覚から生まれるのであり、善とは避けることの至難な悪からの彼岸への憧れに由来する」と書いております。文中の「彼岸への憧れに由来する」には、どのような意味があるのか? 戸川行男の『意識心理学への道』を読んでおりましたら、「彼岸への憧れ」とは、悪の自覚に基づく、「願望としての倫理的意志」のことではないかと考えられます。
行動の動機には、欲求と願望との、二つがある。欲求は「過去の有効行動を反復し、再現しようとする動機」です。これに対し、願望という動機は、「未知の想像上の望ましい成果を何らかの行動によって期待し実現しようとする動機で、一般に理想とか、将来の希望とか、憧れと呼ばれているものがこれである」と、戸川行男は説明しています。鬼子母の倫理的意志が彼岸にまで向けられているとするならば、とにかく、悪の連鎖を断ち切ることはできるのではないか、と思います。
最後に、私たちの国の、この日本だけでも、幼い女の子が次々に掠奪され、殺害されて世間を騒がせた事件。若い女性が拉致されて、監禁、集団暴行されて、殺害された事件。男性が女性に騙されて、次々に殺害された事件。さらに、近年のことですが、毎日のように多数の老人が、騙されて、大金が奪い取られ、死地に追い込まれている詐欺事件。こうした事件の犯人の一人一人には、渇愛が、それも激烈な渇愛があって、その心の奥底には、鬼子母神の心の奥底にあったという、牛飼いの妻に見るような、怨念の炎、怨恨の炎、三毒の焔(ほむら)が、燃え盛っているに違いない、と思うのです。以上で、終わります。スライド変えてください。
長時間にわたる、ご清聴に対しまして、感謝申し上げます。(合掌)
スライド51(以上で、「鬼子母神の物語」をおわります。ご清聴に感謝します(合掌)。
ありがとうございました。以上
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