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(宗報 平成22年9月号 第270号 改訂 第102号)

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東京都南部社会教化事業協会会長 今田忠彰
「脳死臓器移植法」の改正に思う
平成九年の成立から十三年経過した今年の七月、「脳死臓器移植法」が、
改正されました。今回は臓器移植の歴史、脳死の問題などについて、東京
都南部社会教化事業協会会長の今田忠彰師にご紹介いただきました。  

 「脳死臓器移植法」が平成九年十月八日に施行されて以来十三年が経過し、様々な問題点が指摘され議論されてきたが、反対意見は根強いものの、今般七月十七日に、「改正臓器移植法」として施行された。
 法改正されて早速、八月十日に「日本臓器移植ネットワーク」は、「交通事故で入院していた二十歳代の男性が脳死判定され、家族の承諾のみで臓器提供された」、と発表した。以下、全国五ヶ所の病院で、五人の患者に移植された。@心臓は国立循環器病研究センター(大阪府)で二十歳代の男性に、A肺は岡山大学病院で二十歳代の男性に、B肝臓は東京大学病院で六十歳代女性に移植された。C腎臓は群馬大学病院で十代男性に、Dもう一方の腎臓と膵臓は藤田保健衛生大学病院(愛知県)で五十歳代の女性に提供された。
◆「日本臓器移植ネットワーク」=脳死や心停止となった人から提供された臓器を、移植を希望する患者に斡旋する国内唯一の機関。
 改正が求められてきた最大の理由は、臓器提供が増えてこなかったことだ。平成十一年二月、国内で初めての「法的脳死判定」に基づいて臓器移植が行われて以来、これまでに脳死からの臓器提供者は八十六例と、欧米に比べてかなり少ない。これに対し移植を希望して「日本臓器移植ネットワーク」に登録している患者数は、約一万二一〇〇人にのぼる。世界でも最も基準が厳格であるとされた我が国の「脳死臓器移植法」だが、施行当初から臓器提供の要件や年齢制限が厳しすぎるとの指摘が多かった。この間、海外での移植を求める小児が相次いでいる現状もあった。

  ●●(1)「脳死臓器移植法」が改正された。●●

 平成二十二年一月十七日より施行された改正では、親族に対する優先提供を認めた。
 同年七月十七日より施行された改正では、改正前では、@臓器提供者の年齢が十五歳以上と制限されていたが、その制限がなくなった。A改正前では、臓器提供者本人の意思表示がドナーカードなどの書面で判明しない場合は、臓器提供者となりえなかったが、改正後では、家族・遺族の判断で可能となった。(厚生労働省「政策レポート」参照)

改正前と改正後の比較
 
改正前
改正後
施行日
親族に対する
優先提供
○当面見合わせる
(ガイドライン)
○臓器の優先提供を認める
平成22年
 1月17日
臓器摘出の
要件
○本人の書面による臓器提供の
 意思表示があった場合であっ
 て、遺族がこれを拒まないと
 き又は遺族がないとき
○本人の書面による臓器提供の
 意思表示があった場合であっ
 て、遺族がこれを拒まないと
 き又は遺族がないとき
又は
○本人の臓器提供の意志が不明
 の場合であって、遺族がこれ
 を書面により承諾するとき
平成22年
 7月17日
臓器摘出に
係る脳死判定
の要件
○本人が
 A 書面により臓器提供の意
   思表示をし、
   かつ、
 B 脳死判定に従う意志を書
   面により表示している場
   合であって、家族が脳死
   判定を拒まないとき又は
   家族がないとき
○本人が
 A 書面により臓器提供の意
   思表示をし、
   かつ、
 B 脳死判定に従う意志を書
   面により表示している場
   合であって、家族が脳死
   判定を拒まないとき又は
   家族がないとき
又は
○本人について
 A 臓器提供の意志が不明で
   あり、
   かつ、
 B 脳死判定の拒否の意思表
   示をしている場合以外の
   場合であって、家族が脳
   死判定を行うことを書面
   により承諾するとき
小児の取扱い
○15歳以上の方の意思表示を
 有効とする
(ガイドライン)
○家族の書面による承諾により
 15歳未満の方からの臓器提
 供が可能になる
被虐待児への
対応
(規定なし)
○虐待を受けて死亡した児童か
 ら臓器が提供されることのな
 いよう適切に対応
普及・啓発
活動等
(規定なし)
○運転免許証等への意思表示の
 記載を可能にする等の施策
厚生労働省「政策レポート」より
 
 法改正によって臓器提供はすぐに増えるのだろうか。識者の見方は否定的だ。
 改正後でも、本人が臓器提供を拒否していなかったことを確認しなければならないし、六歳未満の乳幼児の場合は二回の法的脳死判定の間隔に通常の四倍の二十四時間以上が必要となる。また、医師不足などで救急医療現場の態勢が整っていない現状も不安要素にあげられている。

  ●●(2)「脳死臓器移植法」の経緯●●

 一九六七年(昭和四十二年)に南アフリカでバナード博士が初めて心臓移植を実施した。
 我が国では、一九六八年(昭和四十三年)に初めての心臓移植(通称「和田心臓移植)が行われたが、手続きの問題や死の判定などの問題や疑問が噴出し、これが原因でその後は脳死臓器移植がまったく進展しなかった。
 臓器移植とは、患者のある臓器の障害が強く、治療による回復が望めない場合に、臓器を提供者から被提供者に移植して治療する方法をいう。
 臓器の提供は、生きている提供者、あるいは死者となった提供者から行われる。後者の場合は心臓死による場合と脳死の場合とがある。肝臓や膵臓は生体移植あるいは脳死者からの移植しかできない。心臓移植も肺移植も脳死者からしかできない。

  ●●(3)「脳死」について●●

  一九六八年にアメリカのハーバード大学医学部から、不可逆的昏睡の判定基準が出された。それが「脳死」に関する世界で最初の判定法・基準であった。
 昏睡状態の患者に生命維持装置を付けて人為的に呼吸運動や血液循環を補助していると、脳の機能が停止した後でも装置による強制的呼吸運動や血液循環により、外見上は自発的呼吸を続けているかのように見える。にもかかわらず、脳の機能は永久に不可逆的に停止して「脳死」と定義される現象が起こる。
 脳死は進歩した生命維持装置がなかった時代には見られなかった現象で、現在でも生命維持装置を付けられていない患者には絶対に起こりえない。
 脳死と判定された患者から生命維持装置を取り外せば、数分から数時間内には確実に心臓死が起こるという。脳死が起こっているかどうかを診断する際には、患者に生命維持装置を付けたままで、集中治療室などの医療機器が装備された室内で、高度な医療技術を駆使して専門家が診断して判定する。
 このようにして診断された医学的な「脳死」を人間の死と社会が容認するかどうかは別の問題であり、医療の側が医学的脳死を人間の死として社会に押し付けることは妥当ではないし、本意ではないだろう。
 現代社会の個々人の人生観・死生観・宗教観などに基づく多様な価値観によって、社会的に判断されるべき問題であろう。
 日本人はとかく「死」をタブー視するが、この問題は家庭でも話し合われるべき問題であり、日本人の「死生観」を形成する上でも重要な問題である。

  ●●(4)問題点●●

 臓器移植に関心が高まる陰に、脳死診断後に一ヶ月以上も生きる「長期脳死状態」という子どもたちがいることをご存知だろうか。国内での小児臓器移植を可能にする臓器移植法改正の前提を、根本から覆すような事例があるにもかかわらず、その存在はほとんど知らされていない。
 A君(七つ)は一歳半の時、原因不明の高熱で急性脳症となった。医師からは「大人なら脳死の状態」と宣告されたが、六年後の今も、人工呼吸器を付けて生きている。発症後三ヶ月は肺炎などの合併症を繰り返したが、危機的な状態を乗り越え、やがて状態は安定し、四歳で退院した。
 母親はA君の皮膚を清浄綿でふき、半開きになるまぶたを閉じて目の乾燥を防ぐ軟膏を塗る。注射針を剌すと身体をよじる。痰を吸引し、三時間に一度の体位交換をする。栄養は鼻のチューブから入れる。
 「苦には感じない。毎日一緒にいられることが幸せです」と母親は言う。
 この五年間に受けた臓器移植法に基づく脳死判定では、無呼吸テスト以外のすべての検査で「脳死」の要件を満たしているという。

  ●●(5)「脳死」は人の死か●●

 死とは、生から死への過程であり、「不帰の点」を過ぎた時点で起こるであろうものなのに、「いま不帰の点を過ぎた」と確定する医療技術が明確でないために、脳死判定で脳死と最初に判定された時点から、決められた時間後に、再度脳死の判定を行って、最初の脳死の判定に誤りがなかったことを再確認して診断を確認する以外に、信頼性のある脳死の診断法はないのである。
 確実に「脳死」という事実があれば、確実に「心臓死」に至るであろうが、「脳死」の判定も人間がすることであるから、不確実であり、誤りもあり、自ずと限界がある。
 元来、「人の死」は法律で決めることではないはずだ。「臓器移植」という技術が発明されたお蔭で、人類は大きな悩みを待つこととなった。
 私たちは、ここで大きな決断をする必要があるだろう。臓器移植の場面だけでなく、一般諭として、問題は多々あることを前提にしても、「脳死」をもって「人の死」とするのか、将来の医療の進歩の一部を無にしてでも、「心臓死」をもって「人の死にとするのか。
 私はこう思う。触れば皮膚は温かく、外見上は生きているのではないかと思えるので、たとえ医師から「この人は死んだ」と言われても、素直には納得できない。
 他者の死の上に我が生を求めるべきではない。耐え難い我が身の死も、掛け替えのない肉親の死も、厳然たる現実の死として、受け入れなければならない。
 私は、家族の見取りを行った後に、遺族に次の『法華経』の一節を説いて、死後の悲嘆を癒す。「常に悲感を懐いて、こころ遂に醒吾す」
 釈尊は「この大きな悲しみを乗り越えて、やがて目覚めよ」と、救いの手を差し伸べておられる。
 私たちは皆、久遠の釈尊の生命を頂いて生きているのだから。
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