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(正法 No.114 お盆号 平成20年/夏 [特集]いのち)

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  「いのち」の大切さ
岩田 親靜   

  急増する自殺者
 日本ではここ十年近く連続して自殺者の数が三万人を超えているそうです。平成十八年の警察庁調査による遺書があったものに限られますが、動機は「健康問題」、「経済・生活問題」、「家庭問題」などが報告されています。これらの自殺原因の多くは我々が生きる現代社会の問題であるともいえるでしょう。
 このように考えると、単純に自殺は「自らの意志で死を選んだもの」と言えるでしょうか。
 現実社会で追い詰められ、いのちを絶つ以外に選択肢がないと思い詰めたため、起こってしまうものと考えた方がよいのではないでしょうか。自殺する人が悪いと簡単に批判することは難しいように思われます。一方で、残された家族、周囲の人びとの気持ちを考えるとなんとも言えない複雑な感情を持ってしまいます。
 私は今、ある電話相談のボランティアに参加しておりますが、その中で、自殺で家族を亡くした方々の電話に何度か対応させていただいたことがあります。
 家族の死を周囲の人びとに伝えることをためらったことや、対応が間違っていたのではないだろうかと自分を責める気持ちなどをお話しされることが多く、周囲の何気ない一言や認識不足の言動が与える影響の大きさに驚くこともありました。
 これらの相談に共通して言えるのは、心の中だけでは解決しえない問題を抱えていることです。
 私自身は残された家族の気持ちに耳を傾けることしかできませんでした。しかし、それだけでも枚われたと言ってくださる方もおり、私にとっても貴重な経験になりました。

  病院の現場から
 自殺を「我々が生きる現代社会の問題」ではないか、と前述しましたが、病院で行われている医療現場の中にも、考えさせられる問題があるように思います。
 以前に、日蓮宗ビハーラ・ネットワーク(NVN)の有志で某病院に入院されている方をお伺いしたことがあります。
 その方は、声を出して話すことはできませんでしたが、筆談によって我々とコミュニケーションをとることができました。決して多くのことを話せたわけではありませんが、顔を見せ、相手に寄り添うこと、傾聴に心がけました。
 何度かお伺いしましたが、その方は残念ながら、亡くなられました。しかし、生前、担当の看護師さんに「(訪問を)待っている」「楽しみにしている」と話されていたそうです。
 家族の有無やそれぞれの状況によって変わっていきますが、動作が困難な人びとは家や病院でどのように時を過ごしているのでしょうか。
 現代は様々な医療制度や高度治療の進歩により、膨大な治療費や入院費を必要とする世の中です。家族はこれらの費用を捻出するため、結果として病室に訪れることが難しくなる場合も多いことでしょう。
 一方で医師は、目の前の患者の病気を治すことに専念します。言い換えれば、ほとんどの医師は身体の部分を診ることはできますが、人手不足や業務の煩雑さに忙殺され、患者の心、患者そのものを診る時間までは持っていないのではないでしょうか。
 私は今、ある病院を訪れる方の車椅子を押したり、院内の清掃を手伝うボランティアに従事しております。そのボランティア研修の中でセンター長が「ボランティアは、患者と病院の橋渡しをするものである。患者側の視点に立ち、よりよい病院づくりの手助けをする役割がある」という主旨のお話をされました。
 現実に緩和ケア病棟やホスピスがある病院では、ボランティアが傾聴や散歩の補助など病院の医師や看護師の仕事を補うこともあります。

  「いのち」の価値
 日蓮聖人は『事理供養御書』の中で「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」と述べ、命の価値は、この世界のすべての財物をもってしても比べようにならないものであると述べています。
 また『可延定業[かえんじょうごう]御書』でも「命と申す物は一身第一の珍宝也。一日なりともこれをのぶるならば千萬両の金[こがね]にもすぎたり」と述べ、一日命を延ばせるだけでもその価値は千萬両の金に過ぎたものであると述べています。それ故に納得できない死、不慮の死に対しては大いに嘆かれています。
 夫に先立たれたうえ、息子までも失った女性に対して送られた『上野殿後家尼御前御書』には次のように述べられています。
    人は生まれて死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存じ、人にもをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候ふ。(中略)まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず。またまた申すべし。恐恐謹言。
 仏教の考え方は、諸行無常ですから、死は当然のことと言ってよいでしょう。しかし、日蓮聖人は「いのち」の尊さに重きを置き、女性の心に寄り添い、共に悲しんでいます。
 「本当に亡くなったとは思えないので、何かを書き申し上げる気持ちが起こりません」とも述べられています。残された家族や病院や在宅で看護を受けている人にとって、自分の思いに耳を傾けてもらえるということは精神的教いとなるのかもしれません。
 「いのち」の尊さや「いのち」のかけがえのなさを感じ、相手を思いやって生きていくことは、すばらしいことです。しかし、現実には難しいことのように思われます。
 文化人類学者の上田紀行氏は著書『生きる意味』で、「今という時代は、自分自身を『かけがえのない』存在と感じることが難しくなっている。自分の存在に自信を持てなくなっている」と指摘しています。
 そのうえで、上田氏は社会全体が利益を重視するのではなく、自己の内的成長を重視し、互いを励まし合い、支え合う社会へ変換していくべきであると提言しています。
 ビハーラ活動やボランティアもこの内的成長を促すものではないでしょうか。ボランティアは本来、自発性・無償性・公共性により成り立つものと考えられています。しかし、本当に無償なのでしょうか。私自身はそこにいる人びとや他のボランティアの方々からいかに生き、老い、死ぬのかを学ぶよい機会を与えられているように感じています。
 活動を通じて、私は「人」に対して、いかに勉強不足であったかを思い知らされてきました。そして、今も多くのことを教えられています。

  生きやすい社会へ
 日蓮聖人は『妙法尼御前御返事』でつぎのように述べられています。
    夫れおもんみれば日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気[いき]は入る気[いき]を待つ事なし。風の前の露、尚[なお]譬[たとえ]にあらず。賢きも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先[まず]臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし。
 日蓮聖人は真剣に死を見つめることの必要性を説いています。死を見つめることにより、かえって本当の生のあり方を見つけることができると述べられているのです。
 死から生を見るというこの視点は、聖人の『立正安国論』とも関わりがあります。
 『立正安国論』は冒頭で、地震・飢饉[ききん]・疫病[えきびょう]などによって与えられた「いのち」が全うできない、納得いかない死が多いことを指摘しています。民衆の苦しみ、悲しみを理解して、事態を救っていくような手が打たれないことに怒りを感じられたのです。それ故、日蓮聖人は事態を是正するためにあえて危険を顧みず、時の幕府に意見されたのでしょう。
 前出の上田氏は、著書『目覚めよ仏教!』の中で行われたダライ・ラマ十四世との対談で「社会的不正に対して仏牧者は怒って良いものなのか」という質問をぶつけております。それに対して、ダライ・ラマ十四世は「慈悲をもって怒れ」と答えています。
 日蓮聖人は、それに先立つこと七百五十年前に『立正安国論』をもって幕府に意見を述べ、他者を救わんとしました。まさに、慈悲をもって怒ったのでしょう。
 私たちが日蓮聖人のように生きるというのは難しいかもしれません。しかし、我々一人ひとりが、日常生活の中で自分だけでなく相手を思いやり、周囲の人々の苦しみを想像し、共感する。そのことで「生きやすい社会」を創り出し、結果として「いのち」を全うし、納得した死を迎えることができるようになる。このことは実現可能で、目指すべき世界ではないでしょうか。
 (いわた・しんじょう=千葉市緑区本体寺住職、NVN事務局員)
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