「有終の日々に寄り添う」
柴田寛彦
まだ厳しい残暑の残る八月末、日蓮宗ビハーラネットワークのスタッフと共に、東京郊外にある病院のホスピス病棟を見学した。この病院は、内科、血液透析、リハビリテーション科、精神科等を含む総合病院であるが、そのワンフロアがホスピス(緩和ケア)病棟になっている。二〇のホスピス病床をホスピス専門医、精神科医を含む四人の医師、十八人の看護婦、ケースワーカー二人で終末期医療に当たっていた。
ご承知のとおり、ホスピスというのは腫瘍などの重い病気に対して、病気の治療そのものではなく、精神的・身体的な苦痛の除去を主眼としてケアをする施設である。都心の雑踏から離れ、緑に包まれた静かなこの病院の環境は、その意味で理想的のように思われた。
このホスピスでは、医療スタッフ以外に、ボランティアがとても大きな役割を担っていた。二十数名の登録されたボランティアが、午前十時から午後四時まで、ホスピス病棟入院患者さんのためにさまざまなお手伝いをしているのである。
精神的にも肉体的にも大変な苦悩を背負っている人のお手伝いをするのであるから、誰にでも簡単にできるわけではない。初めの三ヶ月間はボランティア・コーディネーターからマンツーマンで指導を受け、その後も毎月一回研修を受けながら、実際の活動を行うのだという。
ホスピス・ボランティアの仕事は、原則として患者さんが求めていることに応えるということであるが、医師や看護スタッフのするべき仕事には決して手を出さない。鉢植えなどの草花の世話、話し相手、掃除、散歩の介助、裁縫、誕生会等の行事の手伝い、足洗介助、シャンプーの後のドライヤーかけなどが主な仕事内容になるが、中でも話し相手になること、特に話を聞いてあげること(傾聴)の役割が大きい。
ちょうど見学日にお手伝いをしていた数名のボランティアとお話をすることができた。その中でとても印象に残ったことがある。それは、「重症な患者さんのお手伝いをなさり、その方が亡くなられると、精神的なショックが大きいでしょうね」とたずねた時であった。
人生の最後の日々にお付き合いし、話を聞き、身の回りの世話をしたその人が亡くなるということは、とてもつらいことだという返事が返ってくるものと思っていた予想に反し、「つらさはない」という答えであった。同席していたボランティア皆さんから、「つかの間ではあっても、喜び、やすらぎの時間を共有できたこと、その大切な時を共有できたという満足感があり、心豊かな思い出として残っています」「大事な時間のお相手をさせていただいて、こちらこそ感謝の気持ちで一杯なのに、逆に患者さんや家族の方に感謝されるととてもありがたく思います」と、清々しい答えが返ってきたのである。
もちろん、本当の最後には、親しい家族とのお別れのための貴重な時間を過ごしている患者さんに心を配り、ボランティアは近づかないよう指導されている。それでもなお残るこの満足感とは何なのであろうか。それは、世間体や名誉や欲望からではなく、心の奥底にある真実の欲求に「風のように、空気のように」真摯に向き合うところから生まれる、充実した満足感なのではなかろうか。
ボランティアに宗教的な安心への関与は難しい。一方、この世での人生の総決算の日々、霊山往詣、み仏の世界に旅立つ準備を整える日々、その大切な時にこそ、やさしく寄り添い慰め励まし安心を与えてくれる宗教的な導師が必要である。日蓮宗教師はすべて、そのような導師であってほしい。
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