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鎮痛剤と臨終正念
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近年、がんの痛みのような強い痛みがある人に、医療用麻薬が処方されることがある。その場合、鎮痛効果によって痛みが抑えられると同時に、時には眠気が生じたり、傾眠傾向になり意識レベルが低下する場合もある。一方、信仰上は人生の終末において心が正しくあること、すなわち臨終正念が理想とされる。痛みを取るための薬剤によってもたらされる傾眠と、臨終正念の相互関係についてどのように考えるべきであろうか。
これは現代的課題であり、経典やご遺文に直接的な回答を求めることはできないが、飲酒に関する仏教的な考え方に1つのヒントがあるように思う。
「お酒に心を乱されてはならない」(不飲酒戒[ふおんじゅかい])とは、仏教徒の心すべき戒の1つであるが、その理由は、お酒を飲むことによって心が放逸になり、慎むべきことも乱れがちになり、精励すべきことも怠りがちになり、いざ臨終に臨んで心乱れやすくなるからであるといわれる。
「仏が阿難に仰せられた。臨終の一念は、強くて猛烈であることは火のようでもあり、毒のようでもある。ささいなことではあっても、大きな影響を及ぼす。わずかにおこる一念も、強くて猛烈であるから、その結果の報いは速やかに受けることになる」(『大智度論』)と説かれているように、臨終に際してお酒の影響で心が乱れていたのでは、成仏が叶えられないことになる。
病気に対する酒の使用について、伝日遠の『千代見草』に次のような1節がある。
「身体の内に熱のある病人は、酒の飲めない人も酒を求めるものである。そのような時には、少しずつ用いるべきである。身体の内の熱にお酒の熱が加わり、自然に解熱するという効果が出る場合がある。あえて好むようであれば用いてもよい。『分別功徳論』の中に“祇園精舎に六年間患っている比丘がいた。優波梨がその比丘に、あなたの病に効く薬があれば、私が求めて与えようと尋ねた。その比丘は、お酒さえ飲めば回復するだろうと答えた。優波梨は、釈尊にお尋ねして差し支えなければたやすいことであると言って、釈尊に事情を話したところ、釈尊は、私の禁制する飲酒戒とは病人に求めるものではない、薬として与えるならばよろしいと仰せられた。そこで優波梨は酒を求めて比丘に飲ませたところ、病がやがて回復した”とあるように、薬になる場合は与えてもよいが、薬にならない酒は与えてはならない」と。
これはお酒についての話であるが、痛みを取り除くための鎮痛薬の場合にも同じように考えることができるのではないだろうか。つまり、お酒を飲みすぎて心が乱れることは仏道修行にとって障害になるが、同じお酒であっても病気の治療に有効な場合は用いてもよいのと同じように、鎮痛薬についても、心が混乱するような強い痛みを取り除くために使用する場合、副作用に細心の注意を払って用いることは、仏道修行の障害に結びつかないと考えることができるのではなかろうか。
近年開発されたオピオイド鎮痛薬は医療用麻薬と呼ばれるが、「麻薬」と言っても、覚せい剤や大麻などのような違法な薬物ではなく、がんの痛みのような強い痛みがある人が使用した場合には中毒にならないことが証明されている。また、医療用麻薬は、痛みが弱くなれば徐々に量を減らして、最終的に服薬を終了することも可能である。
「一度使い出したら決して止められない薬」ではない。
耐え難い痛みを取り除く鎮痛薬の使用は、臨終正念に反しないと考えたい。
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(論説委員・柴田寛彦)
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