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(読売新聞 平成18年5月31日号 17面 論壇) 記事

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上田 紀行

「世界仏教」への期待

 うえだ・のりゆき 東京工業大学助教授・文化人類学 1958年東京生まれ。「覚醒のネットワーク」「日本型システムの終焉」「がんばれ仏教!」「生きる意味」など著書多数。

 仏教は「期待される宗教」である。
 この3月までの1年間、アメリカで東のハーバードと並び称され、進取の気質に富むスタンフォード大学の仏教学研究所に在籍し、講義を担当しつつ、様々な見聞を広める中で、私は仏教に対する高い期待に驚かされた。そして<世界仏教>と<日本仏教>の温度差を痛感し、日本仏教の変革に思いを馳せざるを得なかった。
 
 平和主義と自己探求

 大学に招かれたダライラマの講演には7000人もの学生が集結し、平和ワークショップや脳科学者との対話シンポジウムも満員の盛況だった(入場料はどれも5000円〜20000円もするのに、である)。私自身の「今日の仏教現代的問いへの応答」という全20回の講義にも熱心な学生がつめかけた。
 なぜ仏教にこのような注目が集まるのだろうか。それは第一に、アメリカ国民の多くが仏教の寛容の精神、平和主義に強い期待を抱いているからだ。ブッシュ政権の支持率を押し下げている、イラク状況の泥沼化は、キリスト教、イスラム教という、他者に不寛容とされる二つの一神教が、政治と結びつき、大きな暴力をもたらしていることへの嫌悪感を増長させている。その解決には、全く別の世界観が必要ではないかとの思いは強い。
 そして第二に、「個人」の苦悩に向かい合い、ひとりひとりの生きる意味を深化させるという仏教像がある。アメリカの田舎では日曜日に教会にいかなければ村八分になるような、「ムラの宗教」としてのキリスト教がある。そうした<しがらみ>としての宗教に抑圧を感じる人々は、自由な個人が自己探求を行える宗教としての仏教に注目しているのである。
 
 「イエの宗教」の限界

 こうした仏教への大きな期待はわれわれ日本人にとってまことに喜ばしいことだ。しかし、そこにはむしろ「仏教輸出国」の日本が学ぶべき多くのことがある。
 近代日本においては、仏教こそが「イエの宗教」であり、それに反発する個人がキリスト教を求めるといった、アメリカとは反対の構図があった。しかし「イエ」の儀式のみに立脚する仏教の限界は既に明らかであり、日本においても個人の苦悩に向かい合う仏教への転換が求められているのではないか。
 アメリカの禅道場や仏教教団の雰囲気は、日本とは全く異なっている。儒教と結びつき、長幼の序列を重んじ、年長者には絶対服従といった軍隊型組織はそこにはない。また、時代と真正面から向かい合う僧侶や寺を紹介し、日本仏教の未来への可能性を提示した、私の『がんばれ仏教!』。(NHKブックス)は英語版の出版のため翻訳中だが、「なぜ本の中に女性の僧侶が登場しないのか?」と仏教シンパの研究者や活動家たちから強く指摘された。アメリカ仏教においては男女は平等であり、禅道場等でも女性老師が尊敬を集め、活躍しているからである。
 
 物質社会の「救世主」

 そして、日本との大きな違いは、アメリカの仏教者たちが仏教を、この弱肉強食の物質主義的な社会における、スピリチュアリティー(霊性・精神性)の復権という、より広範な世界的躍動の中に位置づけていることだ。仏教はまさに個人を救済し世界を救済する、大きな時代的な責務を負っているものとして認識されているのである。
 野球の本場であるアメリカが世界大会で敗れたとき、アメリカ人は「輸出先」である日本や韓国の野球にこそむしろ野球本来の魅力が溢れていると深く認識し、また自国の審判の不正な判定を厳しく指弾した。仏教の「本場」である日本もまた「輸出先」から学ぶべきときが来ているのではないか。日本仏教が世界仏教たり得るのかが今まさに問われているのである。
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