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日蓮宗新聞 平成19年2月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
28 
老いの豊かさ

老いとは「聞くこと多き人」
50代に見えなかったものが60を越えて
見渡すことが出来ればうれしいもの

 人生の素晴らしさは、若い日の輝きや壮年期の活力だけではありません。老境の安らぎがあって、その生涯は一層意味あるものとなります。それまでの半生が苦難の連続であっても、過去を肯定し、来世を期して、賜った生を満ち足りたものにしていきたいものです。日本人が初めて遭遇する高齢社会。後に続く世代のためにも、老いの生き方が改めて問われています。
 敬老週間の特集記事に「長命地獄」の見出しがあり、印象深く心に残っています。マスコミの造語ですが、長生きがゆえに地獄の苦しみを受けるというものです。「長命」と「長寿」はいずれも寿命の長いこと。長寿には地獄がつきません。寿はことほぐ(寿ぐ・言祝ぐ)と訓じて、ことばをもって祝福すること。自他共に長生きを喜ぶ意味合いがあります。
 長生きをしたいと言いながら、その口で年はとりたくないと話します。「老」の文字を忌み嫌う風潮があり、地域の文化活動でも、老人学級、老人クラブを朗人学級や高齢者クラブなどと改称しています。しかし、老には、さびる(品がある、老格)。なれる(老練、老熟、老巧)。年功を経る(年輪、老識)という意味があります。また、老いは長者の尊称であり、徳を積んだ人の敬称(長老、老師)でもあります。原始経典では、老いとは「聞くこと多き人」として、経験の豊かさを強調しています。
 九十五歳の日野原重明氏(医師)は、「年をとれば、人生は終わりだとはじめなくなる。夢を持たなくなる。何かをはじめてみよう。新しいことにチャレンジしよう。『古い切株に新しい芽が育つ』」として、「老いを創[はじ]める」ことを提唱しています。
 「しみじみと百歳の顔初鏡」。これは土方由さんが満百歳で編んだ句集「初鏡」の第一句です。初鏡は、年が改まって最初に見る鏡をいいます。俳句を始めた時は何と九十歳だといいます。
 「いくばくの余生か知れぬ身にはあれいまだ幼き山椿植ゆ」。新聞歌壇の一首。山から引いてきたものか、椿の苗を植える作者。その手の先には、もう真紅の花が朕いているのだと直感しました。あやかりたい生き方です。
 老年期のあり方に寄せた発言に、「自分らしく生きる」ためには、周囲への気兼ねや思わくは気にしないとありました。しかし、身近な人の幸せを踏みにじってよいものでしょうか。また、生涯現役を主張し、気力の若さを誇って、老いを拒絶する向きもあります。しかし、老いを認め、受け入れて、はじめて見えてくるものがあります。
 老いは、青年期には観念であり、中年期には予感になり、六十代ともなれば実感となります。五十代に見えなかったものが、六十を越えて見渡すことができれば、うれしいものです。たとえ耳は遠くなっても、人生の辛酸をなめてきた、老いの身に届く音に耳を澄ませてみましょう。
 仏教語大辞典を編さんした中村元[はじめ]氏は、「老いは幸せの果実である」と述べ、老いそのものが恵まれた生の結実であり、喜ぶべきこととしています。生かされ、生きてきた事実に心が及べば、感謝の念いが溢れでてきます。老いて、今いのちあることは当たり前のことでしょうか。
 晩年の日蓮聖人は、「今日の存命不思議に覚え侯」と述懐されています。生死の境を、数知れぬ法難を越えられた聖人のお言葉は、まことに重く、深いものがあります。私たちに「おかげさま」の眼があれば、老いの喜びが見え、足元の小さな幸せを拾うことができます。若い日にない、老いの豊かさを享受したいものです。
 そして「老いは死に至る病い」と言いますが、お題目にすべてをゆだね、「次の生の仏前を期[ご]すべきなり」『持妙法華問答鈔』のご教示にしたがって、生死を貫く安心[あんじん]をいただこうではありませんか。
 次回は老いと若きのかかわりについて考えます。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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