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日蓮宗新聞 平成24年6月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
92 
 悲 嘆 まる17

待ち受けていた塗炭の苦しみ
妻を亡くしたその後で…

 前回より垣添忠生氏(国立がんセンター名誉総長)の「妻を看取る日」と題した講演と同名の著書から、死別の悲嘆と再生の道筋を紹介しています。氏は二〇〇七年の大晦日に四十年連れ添った昭子夫人を闘病の果てに見送りました。
 出会いは研修先の病院で夫人の担当医になったこと。お互いの家は三百メートルの距離、波長が合いこの人と心に決めたものの、両親は許さず駆け落ち同然のスタートでした。夫人のほうが年上で英語と独語が堪能、海外の医師や研究者との交流には傍らで存分にその力を発揮しました。『妻を看取る日』はこのほど文庫本(新潮社)になり、友人の作家・嵐山光三郎氏が「きわめつきの愛妻家、なんで夫婦仲がいいんだろうとうらやましかった」と解説に記しています。
 このような伴侶に先立たれ、悲しみに向きあうことになった氏の述懐を要約します。
   ◇  ◇
 「年が明けて三箇日、食欲はなくおせち料理に箸をつけても味がしない、大好きな酒もうまいと感じない。一人で生きていくしかないと思ったが、塗炭の苦しみが待ち受けているとは知るよしもなかった」。
 「玄関で妻の靴が目に入ると涙が噴き出す、妻が好きだったブラウスやスカーフにまた涙、二人で通った道にさしかかると思い出と共に涙が止まらない。食欲はなく体重は減り、睡眠剤がないと眠れない、精神的打撃は思った以上に肉体に影響を及ぼしていた」。
 「味がしない酒だが辛い気分を麻痺させようと毎晩相当な量を飲んだ。会議、講義、原稿執筆など多忙をきわめ、仕事に集中することで悲しみを忘れますます没頭していった」。
 「夜が辛かった、寒風の中を帰宅してもわが家は明かりひとつ点いていない、誰もいない部屋は冷え切っている。祭壇の写真に一日の出来事を報告するが答えは返ってこない。じっと座っていると背中からひしひしと寂しさが忍び寄って身をよじるほど苦しかった」。
 「この苦しみに一人で耐えて生きていくしかないと考えた。しかし耐えかねると『もう生きていても仕方がない』と思えた。でもそんなことをしても、妻は決して喜ばないと自分に言い聞かせた」。
 一ヵ月を過ぎた感慨は「よく生き延びたものだ、死なないから生きているという毎日だった。半身を失った感覚、地べたを這うような日々が永遠に続くのではないかと絶望的な日もあった」。
 それが三ヵ月ほどがたつと「わずかながら回復の兆しが見えはじめる。悲しみは癒えないが時間とともに和らいでいく、時の流れに身を任せればよいと思えてきた。悲しみを癒すグリーフケアについては、どん底の三ヵ月は立ち直ろうとする気になれず、その分野の本は読む気がしなかった。しかし落ち着いてから、グリーフケアの書籍や論文に目を通すと、心身に生じた現象と一致するものが多いことを知った」。
 「アメリカの文献では妻を亡くした直後の叫び声をあげたいほどの肉体的痛みを『サメに襲われて手足をもぎとられたような感じ』と表現していた。『体のどこかに深い穴が空いて、そこから血が滴っているような感じ』というものもあった。時間とともに血は止まるが、傷を埋めるために盛り上がってきた柔らかい肉芽に、ちょっとでも触れるとまた血が噴き出す。やがて傷口に薄皮がはり皮が厚くなって、少し触れたぐらいでは傷つかなくなるという」。
 氏は次のように分析しています。「日に何百何千回となく心の中で妻と対話したのは、巨大な空洞を埋めようとしたのであろう。またふとしたきっかけで涙があふれるのは肉芽に触れたからだ」と。薄皮がはり、何とか人と平静に付き合えるようになるまで三月を要したといいます。
(次回に続く)
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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