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日蓮宗新聞 平成24年1月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
87 
 悲 嘆 まる12

話を聴けない種族  僧侶? 大学教授?

 「お坊さまは話がお上手、でも人の話をじっくりお聞きにならない」
 いつ頃だったかこのような物言いを耳にしたことがあります。「そうかなぁ、大勢を前にした法話は苦手でも、一対一で向いあえば人を引きつける人もいる。得手、不得手があるもの」これがそのときの感懐でした。ところが最近、次の一文を目にしあらためて僧侶の有り様を見透かされた気がして、自戒しなければと感じたものです。
 小川有閑氏(国際宗教研究所研修員)は自死遺族の支援について記すなかで「僧侶は習性として、何か良いことを言いたがる、もしくは、言わねばならぬと思いがちな生き物。説教癖は、無意識に上下関係を持ち込む危険性をはらむ。“ケアする・導く・悟れる”僧侶、“ケアされる・導かれる・迷える”遺族という上下関係を勝手に築き、仏教の力でなんとか救ってみせようと思ってしまう可能性がある。
 悩み苦しむ人に、何か良いことを言おうとして、教義・経典から借りてきた言葉を投げかけるよりも、ただただつらい気持ちに耳をかたむけ、思いに寄り添いながら、最後の最後に、自分の心からの言葉をー言伝える方が、よほど、相手の胸に届くことになるだろう」と指摘しています。
 また、小谷みどり氏(第一生命経済研究所主任研究員)は、「葬式仏教の公益性と仏教再生」の講演の中.で、僧侶の社会活動は一般のサイドから見るとなかなか根づいていない、それはお坊さんが人の話にあまり耳を傾けようとしないことが一番の原因だと思います。
 お坊さんは説法、説教なされるお立場でしょうから、人の話を聞かない。死に行く愚者さん、死に行く愚者さんだけではありませんけれども、お寺にやってくる檀家さんたちは話を聞いてもらいたいわけです。必ずしも説教されたいわけではないわけです。
 人の話をじっと聞くという傾聴は簡単に思えますが、いざやってみるとものすごく難しく、訓練が必要です。愚者が何を求めているか、ニーズを把握せず、またスキルのないままにそのような現場に出ていかれるのは、すごく向こう見ずで危険な行為だということになりかねません」と述べています。僧侶が気づいていない聴くという姿勢の問題点がみえてきます。
 日蓮宗との縁が深い大阪大学前総長・鷲田清一氏(哲学)には「『聴く』ことの力」という著書があります。「聴くことの意味」と題する講演の冒頭で「大学教授、研究者という職業は人の話を聞かない種族です。つまり最後まで話を聴いてあげる前に“そんなことを考えてはだめだ”“こうしなさい”“この本を読め”などと話の腰を折ってしまう。研究者は自分が夢中になっていることを人にしゃべりまくる種族、最後までじっと待って聴いてあげることが一番下手な人間です」と切り出されました。
 「大事なことは自分の苦しみを“自分の言葉で語りきる”こと、聴く人は途中で口をはさんではいけません。最後の最後まで待ちきる。その人が自分で語りきるまで持ちきることが大事なんです」
 「したがって聴ききることも大事、そして聴く方は“何を聴くか”ということ、聴く方も難しいものです」「“本当にこの人のことを分かっているのか”という確信のなさ、逆に分かったと思うことの傲慢さもあります。“言葉をちゃんと受けとめられているだろうか”“自分は聴けているだろうか”いろいろな思い、揺れが聴く方にもあります」「話の中身だけでなく、話そうとして話しきれないその思いにまで、聴く側の気持が向っていること。
 話す背後にあるものまでつかもう、ふれようと聴く側が、自分に関心を持っていると確認できたとき、人は思いの丈を話しきることができます」と。いささか長い引用となりましたが、お詰の要点をご紹介しました。
 聴くということは話ではなく「その人を聴く」ということだと思えてきました。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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