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日蓮宗新聞 平成23年9月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
83 
 悲 嘆 まる8

「悲」によって人は慰められ
生きる力を見い出していく

 夫[つま]逝きて夫の大きさ夏の海   築樋たつみ
 大切な人を亡くして悲しみに沈む嘆きのなかで、どのようにわが身を処していけばよいか、とまどう人は少なくありません。長年連れ添ってきた夫なり、妻が、この場にいて当たり前であり、その死は特段考えなかったことでしょう。「愛別離苦」は観念として理解していても、事に直面しはじめておののくのが、凡夫の私たちにほかなりません。「かけがえのない大切な人だった」と、真底その存在の大きさに気づくのです。
 「悲しか力」という言葉を知ってから、その意味をたずねる過程で、偶然にも作家、五木寛之氏のテレビ講座に出会いました。氏は「慈悲」について語るなかで、なぜか「悲」という字にこころ惹かれるとして、大要次のように述べています。
 「悲」は古いインドでカルナーといい、「思わず知らず洩[も]れ出すため息、うめき声のような感情」である。慈は「頑張れ」、悲は「慰め」の印象を持つ。「頑張れ」という励ましは、立ちあがろうとする意志と気力を残す人には大きな力を発揮する。しかし、そうでない人には、ただそばに座り、手に手を重ね、涙を流すほかはない。それしかできない無力さに、深いため息をつき、うめきを洩らすことが「悲」である。このような悲によって人は慰められ、生きる力を見い出していくのではないかと。
 人は耐えがたい辛[つら]さや悲しみに出遭うと、思いの丈を語らずにはいられないといいます。それを受けとめてもらえず、遣[や]り過ごすことができないと、「やりきれない」思いがつのるばかりです。重要なことは聞き入れ、聴き届ける人がいることです。これがグリーフケア(悲しみを支えること)になります。
 愛する者と死別し悲しみに打たれた人が、そこから逃れるためにあえて仕事に没頭することで、悲しみを忘れることができたと聞きました。あるいはアルコールで気を紛らす人もいて、事実、死別後に酒量が増えたというデータがあり、また、酒を口にしなかったのにキッチン・ドリンカー(主婦の飲酒常習者)になったケースもあります。これらはいずれも賢明な選択ではありません。
 悲しみはできれば避けて通りたいのが人情です。いうまでもなく死別の悲しみは誰かが替ってくれるはずもなく、引き受けるほかはありません。残された寂しさと孤独感を嘆くだけでよいものでしょうか。悲しみに秘められた真実を探る試みも必要なことです。自らを欺くことなく、ひたすら悲しみに向き合い、悲しみの意味を問い続け道を開いていく考え方があります。
 悲しみから逃れ、安らぎを得るのにはどうすればよいでしょうか。それは悲しみをわが人生の事実として無条件に認めるしかありません。悲しみから逃げていてはいつまでも悲哀の淵から抜け出すことができません。
 法華経の如来寿量品には「如実知見[にょじつちけん]」とあります。「如来は如実に三界[さんがい]の相[そう]を知見す」の経文に由来します。如実知見とは「現実の相[すがた]をありのままに見つめ、ことの本質を見抜く」という意味です。事実をそのままに見据え、そこから価値や道理を汲みとることです。
 悲しみをこの身に引き受けて立つというのが、仏さまの智慧のはたらきです。むずかしいと思われがちですか、お題目を信じ持[たも]ち、唱え唱えて、おのずから智慧をいただくのです。
 死別の悲嘆からのまことの回復は、一つにはぬくもりある周囲からの配慮と支援であり、二つには辛くても悲しみから目をそらさず、そこに人生の意味を見い出そうとする姿勢です。「悲しむ力」はやがて生きる力となり、悲哀に学ぶ真実はその後の人生をより豊かにします。私たちはお題目の力によって、悲しみもわがものとして掌中に頂戴するのです。
 戦時中、若くして相次いで家族を亡くした篤信の老婦人の言葉です。「あの悲しみがあって、いまの私があります。手を合わすばかりです」と。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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